山梔窩(さんしか)を訪ねて 福岡県筑後市水田(筑後市制施行 60周年記念事業)
平成26年10月2日 天気:雨 筑後教育委員会職員から資料をいただきました。
この文章は資料に基づき、 写真と合わせて筑後教育委員会職員の許可を得て書いています。
山梔窩(さんしか) 福岡県指定文化財 史跡
嘉永5(1852)年~文久2(1862)年、勤王家真木和泉守保臣(やすおみ)が謹慎生活を過ごした家です。
「山梔」とは、「くちなし」のことで、藩政に口を出したため蟄居を命じられたので、以後、何も言わないという意味が込められています。
真木保臣(1813~1864)は
紫灘と号し、国学・和歌をたしなみ、音楽にも明るい文化人でした。力士と見まがう体格で、弓術は免許皆伝の人物です。
幼くして久留米水天宮の第22代神職を継ぎ、水戸に遊学後、藩政改革に関与します。しかし、藩主有馬頼永(ありま・よりとう)の死とその後の藩政の混乱により、神職を解かれ水田の大鳥居信臣おおとりい・のぶおみ)方への蟄居を命じられます。
水田では信臣宅の一角に「山梔窩」を建て、親類を含めた一切の面会を禁止されたにも関わらず、青年らの願いを聞き入れて子弟教育を行いながら各地の情報を集め、雌伏(しふく)の時を過ごしました。
文久2(1862)年、薩摩藩の島津久光の上京を好機と見て脱藩、薩摩を経て京都伏見に入り「寺田屋の変」に遭遇、久留米へと送還されます。久留米では、藩の方針が定まらず保釈と拘束(「保臣捕り」)を繰り返し、翌年藩命を受け、久留米藩親兵を率いて上京、途中立ち寄った長州藩から信頼を得ます。
京都では志士達から「
今楠公(いまなんこう)」と謳(うた)われ、孝明天皇より褒美を賜るなど目覚しい活躍を見せ、倒幕を進めようとします。しかし「8月18日の政変」により、長州藩および三条実美(さんじょう・さねとみ)ら勤王派の公卿くぎょう)7人が失脚、彼らと共に長州へ退きます。
(七卿落ち」)
元治元(1864)年、長州兵と共に浪士隊を率いて上京、「禁門の変(蛤御門の変」)に及び敗退。天王山に退き、事件の責任を取り自刃しました。
彼の思想は徹底した幕府否定・王政復古にあり、その行動理念は当時隆盛を誇った水戸学よりも南北朝時代の忠臣・楠木正成(くすのき・まさしげ)の姿にあったといいます。
明治24(1891)年、正四位を追贈されました。
山梔窩は昭和43(1968)年、筑後郷土史研究会・山梔窩保存会により、現在地に移築・復元され、県指定史跡となっています。



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