特別展 地域のなかの山梔窩 筑後市郷土資料館 平成26年10月2日
期間 平成26年10月1日~11月9日 (祝日の翌日と月曜日は休館です)
次の文章は筑後市郷土資料館の資料から引用しています。
山梔窩完成と和泉守のくらし
嘉永5(1832)年3月、久留米藩に」おける尊王攘夷派の失脚・弾圧(嘉永の大獄)により蟄居を命じられた真木和泉守は、謫居とともに息子主馬の神職相続のことが気がかりでした。百余日を経た8月になって藩庁より相続を許されたことで、別に幽居を造って一人静かに読書に過ごそうと思いました。
久留米から水田に移った年の10月20日、尾島kら大工の茂七を呼んで工事を頼み、弟直人によって久留米藩庁に許可願いが出されました。程なく許可がおり、大鳥居家の東北隅に小屋を造ることになりました。
茂七は翌月7日から材木を運び、翌年7月17日に礎を置き、8月6日に竣工しました。
幽居は、4疊半・4疊との二室よりなる平屋建ての藁葺きで南に面した庭には松、竹、芭蕉等があり、北側には下川という小川があって、そこには橋がかけてありました。また、傍には、竹林、雑木が繁茂し、柏や松は聳え、奥深い趣に富んだ眺めが、重苦しい気持ちを慰め読書をするには、うってつけの環境だったのではないでしょうか。
和泉守は直ちにここに移り住み、幽居を山梔窩と名付けました。山梔はクチナシ。窩は小屋のことで、訓読みしてクチナシノヤと言います。
彼は口舌の禍によってこの地に謫居された故をもって、
言わず語らずの意味においてこのような命名をしたと伝えられています。
和泉守はこの幽居に籠り、身の健康の為に自ら炊事を行い、読書にふける日々を送っていました。
山梔窩での教育
水田は村学がなく、勉強したい者は久留米または上妻の会輔堂へ行くしかありませんでした。これを考えて村学の必要を薦めたのは和泉守の弟大鳥居信臣でした。
信臣は馬廻格に列し、俸禄二百石を受けていましたが、何もすることなく過ごしていたので天満神に対しても藩主有馬家に対しても後ろめたい気持ちがあったのでしょう。水田村学を始め自宅において8歳から12歳までの村の子どもに学を教えることにしました。
水田はは毎朝、粥をすすり出来るだけ節約を行い、余分を貧困な子弟に書物を与えるなど、更に困っている者にはお金を与えて救いました。そのため堂には学びたいという者があふれ、一人で教えるには困難になるまでになりました。和泉守の教えの基となった楠公精神は史学によって国体の大本に遡ることで青年たちを躍動させるものでした。
安政元(1854)年11月より講義を開いたのは、会沢正志斎の「新論」でした。のちに「春秋左氏伝」などの講義もありました。和泉守の教育方針はこれら水田の青年子弟を率いて国家有用の人間にすることで、我が優秀な国体の真髄を説き、続いて時代の変遷をしらせました。また、武技を教えようと大鳥居家の隅に弓道場を造るなど文武両道、自分の持つ知識や技術を惜しみなく伝えました。
楠と楠公祭
山梔窩の東北隅に大きな楠があります。これは和泉守が水田に来た頃のものではありません。元の楠の木は明治の初め頃に樟脳の原料として伐採されたもので、その根から芽をふいて成長したものです。
和泉守は楠の木を神霊とし、大楠公(楠木真成として嘉永5(1852)年5月25日祀っており、楠公祭と言いました。その後も
を続けて行っています。楠公祭では門下子弟及び近くの知人を招いて自ら祭文を朗読し子弟等にも祭祀を奉らしめて大楠公の霊を慰め、物事の道理や秩序を説きました。そして七生報国の真心で子弟を感化することを忘れませんでした。
この楠公祭は楠公の湊川戦死の日で、和泉守は山梔窩を離れても行く先々で楠公祭を欠かすことなく行いました。かつて孝明天皇即位の大禮拝観の途、京都の小林筑前守の家で、大楠公が戦死する際に着ていた甲冑を見る機会を得ました。その時、日頃慕っていた大楠公の甲冑の擦り切れた糸屑を貰って、お守りとして天王山で自刃するまで肌身離さなかったと思われます。
安政元年5月25日、山梔窩に移って3回目の楠公祭には大鳥居小太郎は桜井駅の楠公父子の別れの図を水田の城崎重兵衛から借りて祀っており、それは以前から使用されていたものと考えられます。昭和49年5月26日、久留米水天宮で行われた楠公祭でも祀られていたようです。
和泉守の生涯は実に楠公精神そのものでありました。当時の志士の和泉守をして「
今楠公」として崇拝していました。また門弟は和泉守の徳を景仰するだけでなく、身をもって大精神を貫いており、そのような門弟を「
百楠公」と呼びます
山梔窩の明治維新への意義
和泉守が謫居生活を送っているとき、久留米藩では弟信臣の責任を糺すなど、藩吏は常に警戒を怠りませんでした。その間にあって、常に読書し、思索し上書きしながら青少年の教育にあたり、また、ひそかに筑前の平野次郎(國臣)、出羽の清川八郎その他天下の志士と接触しては、国内外の事情を伝え意見を交換していました。
平野次郎は万延元(1860)年9月26日に初めて訪ねて以来、文久2(1862)年2月4日まで十数回、和泉守と共に国策を図っています。
和泉守にとって11年の謫居生活は和泉守の本質をはっきりさせ変転極まりない天下の形態を見通して、よく勤王運動の根本策を練り上げることの専念しました。
惜しくも和泉守たちは業半ばに天王山(京都府乙訓郡)で自刃しましたが、山梔窩関係の志士も筑波(茨城県南西部)に、大和(近畿・畿内)に、天王山等と各地で働き続けました。
こうして王政復古の大業は、明治維新という形で和泉守の没後から数年後ではありmしたが思いが届き、成し遂げられました。このように、王政復古の先駆けとなり明治維新への原動力となった場所が
山梔窩だったのです。
その山梔窩が今日まであるのは、筑後の大きな誇りです。この誇りある史跡を郷土の先人たちは自分っちの義務として保存し顕彰されてきたのであります。
展示品



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