勤皇の志士 高木元右衛門(菊池市出身)
辞世の句
屍をば 都の苔に 梅おきて
我が大君を 守りとやせむ
蛤御門の変時の認証標
京都東山の霊山神社には、長州藩殉死者の墓標群の中央に「肥後高木元右衛門直久墓」が建っている。
高木元右衛門
高木元右衛門は、天保4(1833)年、深川の高木甚之助の次男として生まれました。
高木家は代々、笛を吹く技を伝える家柄です。
高木元右衛門は幼い頃から父と兄と共に武道も練習に励んだようです。
また、二天一流兵法と揚心流柔術を山東新十郎に、槍術を富田十郎右衛門に、山鹿流兵学を宮部鼎蔵に教えを受け、学問も赤星の高山蘭癖に学んでいます。
その上笛の名人であり、笛を吹くと屋根の瓦まで吹き落とすほどのすごい音が出るので「瓦落としの笛」と呼ばれたと伝えられています。
17歳になると、山東流剣術の仲間である荒尾の宮崎長兵衛らと広島から江戸へ武者修行に出かけています。
万延元(1860)年、元右衛門27歳の時、「桜田門外の変」がおき、幕府の井伊大老が暗殺されました。
元右衛門は文久3(1863)年6月、播州(兵庫県)姫路で船から上がり、京都へ行きました。
長州藩(山口大学)の人々を中心に、幕府を倒す計画がたてられており、京都守護職や新撰組は、これらの勢力の動きを厳しく監視していました。
元右衛門は肥後勤皇党の志士として、長州藩の志士とともに、京や長州で活躍していました。
元治元(1864)年6月5日の夕方、長州藩士ら20余名は、京都市内の池田屋の2階で密談をしていました。
この会合には肥後勤皇等から宮部鼎蔵・松田重助・高木元右衛門の3人が出席し、特に宮部鼎蔵は会合の中心人物でした。
その情報を聞きつけた新撰組が、局長近藤勇を先頭に、30数名が切り込んで来ました。その後、守護職の兵なお3千人もかけつけて取り囲んだと言います。
数時間の激闘の末に、宮部鼎蔵ら7名が死に、20名近くが捕えられました。
元右衛門は短刀を持って近藤勇や新撰組隊士と斬り合い、厳しい囲みをつき破って、近くの長州邸に駆け込み難を逃れたのでした。
池田屋騒動が、禁門の変(蛤御門の変)の原因となり、7月に入ると長州勢は、京都近郊に続々と集結して包囲態勢を取り始め、京都の地に緊張した空気がみなぎりました。
朝廷および幕府は会津・桑名・薩摩の諸藩に命じて警備にあたらせ、さらに東海道・中山道その他の道筋に徴収勢が出兵するのを止めるように命じました・
両者が相対すること20日あまり、ついに長州軍は行動をおこし、7月19日早朝、京都守護軍との間に戦いが始まりました。
この戦いで、元右衛門は先鋒として蛤御門に突入し、守護軍の銃弾を受けて戦死しました。時に32歳で、死を覚悟しての参加でした。
終わります。
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