2015「みやまの人と歩み 伊藤整一」紹介の続き・千寿の楽しい歴史
「みやまの人と歩み 伊藤整一」紹介の続き
日米開戦
日米が開戦し、太平洋戦争が勃発しました。当初の予想に反して日本軍は各地で勝利を重ね、半年足らずでアジア全域を占領下におきました。ここまで勝ち戦が続くと、味方の中には慢心が芽生えることになります。事実、親米派の中にもアメッリカに勝てるのではないかという楽観論が漂い始めていました。しかし、そうした中でも整一は冷静でした。自分の駐米経験から、近いうちにアメリカは反撃してくると予想していました。その予想は的中します。
ミッドウェー海戦の敗戦を皮切りに、ガダルカナル島の戦い、マリアナ沖海戦と、日本軍は立て続けに敗北を重ね、海軍は山本五十六をはじめとする優秀な将校を失いました。
レイテ沖海戦の敗北後、昭和19(1944)年12月に第二艦隊司令長官に就任した整一は、もはや数えるほどとなった艦艇をどう活用するか、頭を悩ませました。戦力と呼べるものは戦艦「大和」ぐらいしかなく、艦隊を動かす燃料さえ、まともに調達できません。
そんな状況下で、整一が取れる手段はただ一つだけでした。それは、思い切って艦隊を解散し、人員と物資を本土防衛に回して艦隊を各港へ砲台として配置するというものでした。
早速、整一は案をまとめ、連合艦隊上層部へ具申する手筈(はず)を整えました。しかし、案が完成したときは手遅れになっていました。
連合艦隊司令部参謀からの命令は、「大和」をはじめとする第二艦隊すべての艦艇を、そのまま特攻兵器とするという内容でした。しかしながら、沖縄の制空権と制海権が完全に敵の手に落ち、「大和」が沖縄に到達できる可能性は万に一にもないだろうと、整一は考えて反発しました。
しかし、正式な命令であることを知った整一は、抵抗をあきらめ、片道燃料で航空機の援助もない「海上特攻」の命令に従いました。整一は、新婚や母子家庭などの新人士官に「勇気ある撤退」を申し出るように指示しました。撤退に応じた49人の若い士官は、終戦後、社会のためにそれぞれ活動しました。
戦艦大和の最後
昭和20(1945)年4月6日、戦艦「大和」は巡洋艦1隻、駆逐艦8隻という、わずかな手勢を従え、豊後水道―日向灘―坊ノ岬を経て沖縄へと出撃しました。当時、中将だった整一は日本海軍の第二艦隊司令長官として旗艦の戦艦「大和」に座乗しました。「大和」の動きは、アメリカ軍に即座に察知され、「大和」を撃沈させるために機動艦隊から無数の攻撃機が出撃しました。このときアメリカ軍の機動部隊を指揮した司令官が、整一がアメリカ駐在時代に親交を深めたレイモンド・スプールアンスだったのは、歴史の皮肉とでもいえるでしょう。
昭和20年4月7日12時30分ごろ、約400機もの米軍航空隊から攻撃を受けた「大和」は、鹿児島の坊ノ岬沖で迎撃を開始しました。対空砲による奮戦も空しく、左舷部に攻
整一は「大和」の傾斜復元が絶望的と判断するや、独断で沖縄突入作戦を断念し、作戦中止を命令しました。本来、作戦中止の判断や命令は、連合艦隊司令部あるいは軍令部が下すもので、現場指揮官には作戦中止の権限はありません。整一は旧日本軍で唯一現場判断で中止命令を下した司令官だといえます。
この判断によって若い将校や乗組員は戦線離脱を許され、多くの命が救われました。生存者の脱出を見届けた整一は、長官の私室に籠り、自決しました。
この沖縄戦の日本軍の戦死者は約3700人、生存者は約1700人、そのうち「大和」の生存者は267人でした。第二艦隊の艦艇は4隻しか残っていませんでした。撃沈された戦艦「大和」は、大艦巨砲主義のおわりを告げるものでした。
日米開戦に最後まで反対し、最後の出撃では若い将校や乗組員に退艦命令を出し、自らは艦に残って戦死したのです。戦争の残酷さや悲惨さを知り尽くし、戦争のない平和な世界を希求した人物でした。
整一は昭和20(1945)年4月7日に戦死しました。同年7月、勲功により海軍大将に任じられました。昭和33年4月7日、墓碑と顕彰碑が大牟田市岬の金助坂の秋丸墓地に建立されました。
生家より700m西の高田町黒崎開には「海軍大将伊藤整一君生誕之碑」」と刻まれた自然石の石碑があります。生家の地主が耕していた畑地の片隅に、昭和29(1954)年11月3日、郷土の福岡県議会議員・藤田国雄が建立したものです。
みやま市発行の「みやまの人と歩み」より。
墓碑と顕彰碑
軍艦「矢矧」海戦記P331より
戦死 副長内野信一大佐以下、446名。
(副長内野信一大佐は現、みやま市高田町黒崎開(鷺山)出身の方です。~私の追記)
軍艦「矢矧」海戦記P332より
海に入って十数分たっただろうか。約2000m先にいた戦艦「大和」に異変が起きた。
「水平線に敵機の急降下だけが見えていた。そこからものすごい煙が上がったのです」
真綿のような白い煙の塊がムクムクとわき上がったかと思うと、7万トンの巨体が完全にこの白雲に覆われた。その姿は、あたかも白雪をかぶった霊峰のようにも見えたが、その白雪が頂上から麓に向かって拭くように消え去った時には、「大和」の跡形もなくなっていた。
「あっ、『大和』が」
そう思った瞬間、ドシーンという不気味な大音響が○○ら漂流者の胸を圧した。
○○は巨大なキノコ雲を見て、レイテ沖海戦での戦艦「武蔵」の姿を思い出した。この瞬間、○○は、日本が誇る二戦艦の最後に立ち会った数少ない証人となった。
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