櫨蝋の歴史と「木蝋の里みやま」(江戸時代編)
4・江戸時代の櫨蝋の歴史
寛永14(1637)年に薩摩の大島代官が、中国から琉球に持ち込み、奄美大島に自生していた櫨苗を持ち帰り指宿や山川に植えて広まったという。
正保2(1645)年、異国船が桜島(小根占村雄川)に漂着した時、土人に黄櫨の種子を植えて実を取り、製蝋法を教えたという。
琉球櫨の果実は実が大きく別名薩摩の実とも呼ばれ、栽培された櫨苗は「薩摩苗」といって良質であった。時代が進むに連れ、櫨の有益性が他藩にも知られ、薩摩と海上交易が盛んであった肥後・島原・筑後・筑前などに櫨の種や苗が移入され、櫨栽培が始まりました。 島原藩での櫨栽培が始まった時期は慶安4年(1651)、櫨栽培が始まりました。
元禄(1688~1704)・宝永(1704~11)の頃、会津出身の金山職人が、桜島の櫨の実は製蝋に適していると告げた。製蝋したところ大いに成功しました。薩摩苗の流通とともに、会津出身の金山職人の伝えた蝋絞り技術も伝播していきました。薩摩藩は初めの頃は地場産業として櫨を藩の専売とし、藩外への流出を厳しく取り締まっています。
本格的な櫨の木栽培と製蝋技術を最初に確立したのは薩摩藩だが、将軍徳川吉宗は財政の再建のため享保の改革のため享保元(1716)年~延享2(1745)年に殖産興業政策をとり、櫨の木などの栽培を奨励しました。
柳川藩、久留米藩、熊本藩、福岡藩、長州藩、萩藩、紀州藩などが競って、薩摩藩から種子を譲り受け、あるいは苗木を買い受けて櫨の木が川や井手の堤防、道沿い、畑にも植えられました。
接ぎ木苗を仕立てて植えると、何本植えても全て上々の実が付き2~4年で収穫できる。その収穫量は10年木で5~10斤(3~6kg)、20年以上の木で30~50斤、旺盛な木では150斤(90kg)にもなる。原木から接ぎ木した新品種が増殖され、品種改良や突然変異により優秀な品種も発見されました。
久留米藩では内山伊吉(1730年~1814年)が田主丸で栽培されていた松山櫨を品種改良して低木で実が多い「伊吉櫨」を開発しました。久留米藩は、櫨の実を蒸して絞り出す生蝋を特産物とするため、伊吉櫨の栽培を奨励しました。
5・江戸時代の和蝋燭
奈良時代から安土桃山時代まで、実に900年という気が遠くなりそうな永い歴史を経て、江戸時代に待ちに待った和蝋燭に出会うことになります。
江戸時代に入り、和蝋燭が出回ることになりますが、庶民には高嶺の花でした。文献によると、江戸初期の和蝋燭の価格は、10匁(37,5g)の蝋燭が24文で、当時の大工さんの1日分の賃金と同じだったようです。
江戸時代に入ると一部の暖地で櫨の木の栽培が始まり、殖産に熱心な地方の庄屋や篤農家が有益なことを知り、相次いで栽培する者が増えてきました。そして藩主の奨励も相俟って、和蝋燭は急速に普及発展します。
和蝋燭の需要が増大し、櫨の実から抽出された櫨蝋は、米や和紙などと共に代表的な地位を占めていきます。
米沢藩主の上杉鷹山(1751年~1806年)は江戸時代屈指の名君と言われています。
日向高鍋藩秋月家から養子となり、弱冠17歳で藩主を継いだ鷹山は様々な藩の改革に着手します。その一つは漆の木を100万本植え、漆の実から蝋燭を大量に製造販売することであった。鷹山は計画に成功したかにみえたが、櫨蝋に阻まれます。櫨の実は漆より大きく蝋分が多いため、瞬く間に市場を席巻して漆蝋燭は衰退していきます。
6・江戸時代庶民の灯り
蝋燭は、庶民はあまり使わなかった。
「たんころ」という可愛い名前が付いた灯明具です。器の形は椀形、中心に灯芯を入れる円筒形です。灯明皿より灯り油を入れることができ、灯火時間が長い、陶器製品です。
江戸庶民は安価な菜種油や鰯油が供給されるようになり灯明皿と乗燭(ひょうそく)を使っていました。
蝋燭は高価であったため武家や公家などの高い身分や裕福者の屋敷などで用いられ、庶民生活の場では祝い事の行事でたまに使われる程度でした。江戸時代の中期以降、徐々に蝋燭が庶民生活にも広まっていきました。
乗燭(ひょうそく・上)と瓦灯(がとう・下)
上の台に皿を置いて灯油をともし、布団のそばでは下に収める。
いずれも庶民の灯具で、手元しか明るくなかった。
7・江戸末期の柳川藩の櫨蝋の歴史
筑後地方の柳川藩や久留米藩でも交易を通して移入された櫨の苗が元禄年間(1688~1703)頃には栽培がなされていました。
元禄16(1703)年に「櫨運上の制」を定め、藩の財政を潤すため、木蝋の製造が促進されることになり田畑や道筋に櫨の木が植えられます。
享保2(1717)年、瀬高町談義所の武田蝋屋が創業し、蝋農家の実が高値で引き取られ、臨時収入となり櫨の木が植えられていきます。
出来た生蝋(しょうろう)を瀬高町下庄田代の晒業者たちにより天日にさらされ加工し白蝋(さらし蝋)となり特産物となりました。「筑後蝋」として柳川藩の統制下に帆掛舟で運ばれ長崎や大坂などに運ばれました。
柳河藩は殖産の一環として木蝋の生産を奨励しました。荒木製蝋は嘉永3(1850)年に創業します。
立花壱岐は、安政2(1855)年、29歳の時に藩の政治に関するすべての権限を藩主・立花鑑寛から与えられました。
壱岐は「鼎足運転(ていそくうんてん)の法」と呼ばれた経済政策を実行しました。
この結果、米、麦はもちろん菜種油、茶、生糸、蝋燭の原料の櫨など、柳川藩内の産物が全国各地に流通し、農民の生活が豊かになり、通貨を蓄えることが出来ました。
壱岐が開発した新品種の櫨は農民たちに「壱岐穂(いきほ)」と呼ばれ、壱岐は「生き神様」と慕われました。
続きます。
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