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高田町の人物・久保田言罕(勤王の志士)の紹介・みやまの人と歩みより
高田町の人物・久保田言罕(勤王の志士)の紹介・みやまの人と歩みより

勤皇への目覚め

久保田言罕は、三池郡江浦村(現、みやま市高田町江浦)でうまれました。代々藩医を家業とし、第8代目を継いだ言罕は、家業を顧みず国事に心身を寄せ、尊皇王政復古を命題として勉学に、交友に奔走する日々でした。

当時、柳川藩の儒学者・横地玄蕃が倉永の山間地に開設した龍山書院に言罕も入ることになり、勤皇思想に傾注して、塾生たちと論議を交
わす日々でした。

また、久留米藩領水田村(現、筑後市水田)に真木和泉守が山梔窩(さんしか)という塾を開き維新回天の思想を大いに鼓吹していました。ときに安政5、6(1858、9)年ごろ、両塾の塾生の間で交遊する者もあり、言罕もその機会を得ます。

真木和泉守保臣をはじめ、同じく水田天満宮の大鳥居理兵衛信臣、福岡の次郎国臣らとも
親交し、自らもその名の下に治臣(はるおみ)をつけ、この4名は強い「絆」で結ばれるようになりました。


勤皇の志士として

文久3(1863)年10月17日、言罕はついに家を出て水田天満宮に同志と勢揃いし、一行は長州(現、山口県)へ向かいます。三田尻の招賢閣に集合して忠勇隊(ちゅうゆうたい)を組織し、真木和泉守を隊長とします。

言罕は「蒲池虎三郎」と変名して、その第7伍隊に所属しました。もちろん勤皇論の強固な長州藩内でも多数の隊が組織されています。

その後、京都御所の蛤(はまぐり)御門で会津・桑名・薩摩の各藩と長州藩との間で戦いが起きます。世にいう「蛤御門の変」です。激烈な戦闘は長州藩に有利に進まず、武運つたなく破れました。ときに元治元(1864)年7月27日のことでした。忠勇隊長・真木和泉守ら17名は京都西南方の天王山。に退き、自刀して果てました

 言罕ら5名は、姿を農民・旅人に変装し、昼間は山中に隠れ、夜間に歩行するという苦難を重ね、長州中ノ関に身を忍ばせたのは8月2日でした。

幕府による探索は厳しく、苦労してたどり着いた忠勇隊の言罕らは、西政寺に身を潜めながら密議を重ねました。時あたかも四国連合艦隊下関砲撃事件もあり、人身穏やかならず、世情は不利に展開し、再び挙兵できないことを知ります。 元治元年8月4日の夕刻、寺の一室で切腹しました。その時37歳でした。


顕彰碑の建立

慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜により大政奉還がなされました。

激闘の中を王政復古に一命を賭した言罕に対して長州毛利藩より石碑標が建立され、また明治3(1870)年には柳川藩庁よりその功績を称え祭祀料を添えて感謝状が贈られました。さらに柳川招魂社(明治7年)・東京の靖国神社(明治24年)などに合祀されて御霊は篤く祀られ、昭和3(1928)年には三池郡教育会より郷里江浦の生誕地に顕彰碑が建立されました。


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by kusennjyu | 2015-05-02 09:34 | みやま市の歴史
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