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千寿の楽しい歴史
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2015塩塚城跡探訪(柳川市大和町塩塚)・千寿の楽しい歴史
塩塚城跡探訪   柳川市大和町塩塚

柳川郷土研究会史跡探訪  平成27年6月2日

天正9年5月27日、佐賀の与賀で鎮漣が竜造寺に謀殺された翌日、鎮漣の弟統安(むねやす)が守る柳川城が攻め落とされた、同日、鎮漣夫人の玉鶴姫や子息、侍女ら108人は統安の次男・鎮貞(しずさだ)が守る塩塚城に逃れる。しかし、竜造寺と田尻鑑賞種(鷹尾城主)の挟み撃ちにあって自害または殺害された。遺骸は後日、宗樹寺の前に集められ弔われた。「108人塚」として残る。

左~宗樹寺にある説明板   右~「108人塚」は東側の田んぼの中にあった。現在は宗樹寺境内に移されている


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配置図

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塩塚城跡周囲を探訪する会員

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柳川郷土研究会会長の武末氏(大和町塩塚)から説明を受け、その後で南側にあった城塚城跡の周囲を探訪しながら、地理的な裏付けなどの説明を受ける。

塩塚城(柳川城支城)と玉鶴姫  楠戸義昭編集

毎日新聞(昭和62年10月25日分より

蒲池氏の家紋は鶴である。柳川城が鶴をかたどって築かれた。代々蒲池城を本城としてきたが、蒲池鑑盛(かまち・あきもり)は3km南の出城、柳川城を根本から築き直し本城とした。その時、城郭を舞鶴の姿にしたと『蒲池物語に』ある。本丸を鶴の胴、東西の堀を翼に、肥前への道を右足、久留米道を左足、富永村の鳥水を頭にみたてた。名城の中にわが家の繁栄を願い家紋を描き込んだ鑑盛。しかしその子の鎮漣(並)(しげなみ)によって蒲池氏は滅びる。

鑑盛は大友氏の傘下に属した情けある清廉な武将であった。肥前の名門竜造寺家を隆信が継ぐのを嫌った大友氏が佐賀城を攻めた時、和議の労をとり、流浪中は領内に住まわせ(大川市一木のお寺)、隆信が再起をはかる際には、300の兵をつけ佐賀まで送った。隆信は蒲池氏に恩を感じ、後に娘の玉鶴姫を鑑盛の嫡子・鎮漣の妻として与えたのである。


隆信が肥前を回復し、九州の一方の雄に踊り出た時、鎮漣は隆信に通じたが、蒲池氏の武力が大きくなり、自立の旗をあげようとしたとして、天正8年2月、隆信の攻撃を受け、柳川城は2万の兵に包囲された。だが籠城300余日、水に守られた城はびくともせず、和議がなり隆信が引いた。

正攻法では柳川城は落とせぬと知った隆信は策略をめぐらす。親子の情によって鎮漣をおびき出す。玉鶴姫は人を人とは思わぬ父・隆信の娘に似ず、姿形も整い、実家より婚家を思う女であった。鎮漣との間に4人の子供がいたという。

鎮漣は義父・隆信を警戒し、手紙による行き来しかしていなかった。だが隆信はしきりに孫の顔が見たいと言ってきた。鎮漣は猿学の名手で、佐賀に来て一緒に猿学でも興行しようと誘う。鎮漣の母や伯父の鎮久が佐賀行きをすすめたため、鎮漣は病気と偽ってきた重い腰を上げる。

『筑後将士軍談』は古老の話として隆信のこの招待に不安を抱いたのは玉鶴姫だったとする。彼女はまず自ら佐賀に乗り込み、もし異心があれば密使を柳川に送ることになった。玉鶴姫は懸命に探りを入れた。容易に真実はつかめず、日をついやす。一方、柳川に着いた竜造寺の使者は、鎮漣に出発を促す。玉鶴姫が父の密謀をやっと握り、自ら険しい近道を柳川に帰り着く。だが鎮漣主従300余人は、すでに別の道を佐賀に向かった後であった。

かくて『蒲池物語』は天正9年5月27日、佐賀の与嘉明神の馬場で、鎮漣は隆信に乞われるままに霓裳羽衣(げいしょううい)の曲を舞う。曲が中程まで進んだ時、伏兵が鎮漣を囲む。面装束を引きちぎり、伏兵をなぎ倒す鎮漣。両家は乱戦になり少勢の鎮漣方に勝目はない。35歳の鎮漣は近くの小家に入り自害した。隆信は時を移さず柳川城を攻めさす。城主を失って混乱する柳川城から、女子供は南南東4kmにある塩塚城に逃れた。

塩塚城本丸は東西27m、南北28mの大きさである。本丸の北端に間口1.8m、奥行き2.7mの毘沙門堂があり、中に高さ50cmほどの毘沙門天が安置されている。夫を父に殺された玉鶴姫。佐賀に戻れとの父の言葉を拒否して、玉鶴姫は柳川城から塩塚城に逃げてきた。あくまで蒲池家の女として死にたい。非常な父への抵抗であった。
この城を攻めたのは鎮漣の母の弟、つまり叔父の田尻鑑種(たじり・あきたね)であった。竜造寺の配下に入っての出撃であり、敵と味方は顔見知りの親戚間の戦いである。しかも隆信は塩塚城に籠る蒲池一族のみな殺しを命じていた。死しかない蒲池勢500人の反抗はすさまじく、戦死100余人、負傷836人の損害を田尻方に与えて、玉鶴姫と共に塩塚城にあった男たちは死んだ。

遺骸は埋められ108人塚が建った。その後、宗樹寺境内に移転して無念の死をとげた女人の霊を慰めるお108人塚地蔵尊が建っている。


蒲池城跡へ続きます。








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by kusennjyu | 2015-06-03 20:41 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 |Topに戻る