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2015直方に生まれた向野堅一物語(その6)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その6)

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。

6・堅一の改宗と社会奉仕活動

元来、直方の向野家は浄土真宗の真照痔の檀家であった。しかし、堅一は竹田黙雷に出会って臨済宗に改宗し、建仁寺で修行して得度した。彼の号「寒林」と『骨肉』には竹田黙雷の影響が見られる。浄土真宗から臨済宗に改宗した堅一は、奉天に妙心寺派の大義寺を建立する。

向野堅一(寒林士徳のち子徳)の漢詩集『拙逸庵妙』(自筆)3冊

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当時、臨済宗のなかでも妙心寺派は大陸布教に熱心であり、とりわけ円山太嶺(圓山太嶺)は大陸布教にその名を刻んだ人である。奉天では丸山老師に師事して参禅した。堅一は寄せ墓を嫌ったという。収子が死亡するまでは、向野堅一一族の墓は新入の向野家の墓地にあった。今は福岡県糟屋郡久山町の西日本霊園東部墓地(大字猪野849)にある。

日清・日露戦争および日露戦争義勇軍の友人の死は、堅一に大きな衝撃を与えたに違いない。恩義に厚かったことは、その後の彼の生き様で知ることができる。戦争で絶命した人々の冥福を祈りつつ,独り座禅する堅一の脳裏には、常に死と隣り合わせで戦場に赴く通訳官の苦悩と、死んでいった仲間たちへの慕情があったと思われる。

大義寺に祭られているのは日本人だけではない。日露戦争で戦死した満州や蒙古の人々も祭られている。

胡桃沢耕史の『黄塵に駆ける』上(講談社、平成元年)は、石川(石川伍一)とともに、木賃宿に泊まり並んで寝ていたが、巡視の兵士が石川を見つけて騒ぎたてたとき、とっさに小声で石川が『おれはもう顔が知られていて言い逃れはできないが、おまえは知らん顔でいろ』と言われ、わざと知らん顔でいた。そのため向野は九死に一生を得た。

戦後40年、昭和に入り、日清の役の話が人々に忘れられるころも、終生、自分の目の前で引き立てられ銃殺された石川のことを語るときは、両眼が涙で溢れたというと付記されている。

堅一は、奉天や遼東半島に数多くの戦没者の慰霊碑・記念碑を建てた。平手泰岩の妙心寺別当建立に協力して、奉天市新高町、奉天第一中学校前に寺院を建立した。そこを日清日露戦争役における特別任務志士の菩提所とし、32名の殉国の士を弔った。これが、後の大義寺である。境内には供養塔も建立した。

このときの式典の様子は、満州映画ニュース「協和満映時事報 第七集 大義寺供養塔慶賛式典(奉天)としてDVD化されて現在販売されている。

また、奉天神社などの設立に関与し、学校創立にも力を入れていった。中国満州という異国の地で、異民族相手に商業を展開していくには、大いなる苦労があったと考えられる。

続きます。






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by kusennjyu | 2015-12-30 15:19 | 歴史学習会 |Topに戻る