2015直方に生まれた向野堅一物語(その7)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その7)
向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。
7・堅一の晩年の行動
第一次大戦のとき世界中が好景気にあった。しかし、昭和初期に、今度は世界恐慌が起こった。世論は国権主義的傾向を強めていった。シェルと共同のガソリンスタンドを
つくろうとし、奉天からウランバトールまでの広大な土地を買い占めたところで排日運動が起こった。
自分が創立した銀行から借金もしていたし、多くの人の保証人になっていた。株価が下がり、堅一も破産状態になる。その苦悩は、有二・元生・啓助宛の書簡に書き表されている。苦労しながら福岡の因幡町の屋敷を処分したりして乗り切った。
堅一が常に息子たちに言っていた言葉「七転八起」「誠意を尽くせば人はわかってくれる」は、彼の人生を象徴している。
晩年は、次第に押し寄せてくる軍部の経済干渉を嫌い、唯一民間人として奉天会議所のメンバーに留まり続けた。しかし、商業意欲を失ってコレクター三昧だったという。
その堅一も、日本軍が満州事変を起こそうとしていることを事前に知り、再び東京へ金策に走らざるを得なかった。事変はくい止めたかった。なぜならば中国人相手に商売をしている茂林洋行を窮地に追い込むこと、再び株価が暴落して満州経済が破綻するのを恐れたからである。押し寄せる動乱の嵐が吹きはじめる昭和6(1931)年8月に向野堅一は上京する。
しかし、その過労は限界を超えた。昭和6(1931)年9月、脳卒中で倒れる。入院加療したが、親友や知人に見守れ、9月17日に永眠する。享年64歳であった。
近衛文麿家にあった『向野堅一従軍日記』初版本は、昭和7(1932)年9月17日の一周忌に際して出版されたものである。
昭和15(1940)年10月30日、日清・日露戦争の特殊任務で殉職した9名に堅一の名を加えて、金州三崎山に新しく慰霊碑が建てられた。
おわりに
最近、多くの資料が直方市から発見されて向野家からも提供されるようになった。いずれも貴重なものばかりである。とりわけ晋がアルバムから剥ぎ取って奉天から持ち帰った写真は、最もたるものであろう。
それらの写真の中で見る晩年の堅一が着ている服は、袍(長袍)という中国服である。中国では、学校の開講式などの公の場所で、それ身に纏って出かけて行ったという。晩年になるほど、その傾向は強くなった。
終わります。ありがとうございました。
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