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千寿の楽しい歴史
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2016邪馬台国勉強会(廣田八幡神社)・千寿の楽しい歴史
2016邪馬台国勉強会

熊川猛司宅  平成28年6月9日

廣田八幡宮縁起

本書は、昭和49年3月刊、白川晃編『廣田八幡宮文書』の一部を抜き出して、原文を現在でも通読できるようにしたものである。

それ、当社勧請の年記を尋ねるに、神亀元(724)年11月19日、豊洲宇佐の宮より、この所に遷幸(移座)されたと云う。

如何となれば、旧記あるいは系図に云う。兎狭(宇佐)国造(クニノミヤツコ)兎狭津彦の後裔、兎狭津速麻呂あり。

神功皇后に仕え奉って、三韓を海上に攻め戦う。時に、津速麻呂の武功、著しいによって、皇后はこれを感じられました。すなわち、筑紫廣田県(ヒロタノアガタ)二百七十町の封戸(律令制度で規定された食封として支給される戸)を授与され、津速麻呂はこれを領地とした。ときに、廣田の長者と世の人は云う。

この津速麻呂9代の後裔を兎狭(速彦丸)と云う。この速彦丸は3人の男子がある。長子を速胤(ハヤタネ)と云い、次を彦信(ヒコノブ)、速俱(ハヤトモ)と云う。ここに速胤、次を彦信、速俱の御子等は、同年の冬、宇佐の宮に参籠して、七日七夜これを祈る。ここに天照大神は託宣し「我が心の廣田は筑紫の下妻(シモツマ)よ。」と宣(のたま)う。

これより、速胤神主は御神躰を頂戴奉り、彦信長者は勅使役として御神躰の跡詰めとなり、速俱は先祓いの神役として、太神を守護し奉り、筑後国下妻郡廣田庄本后(郷)邑の仮宮に安置し奉り、その後、芳司なる塩忍井川(矢部川)の中瀬の上に西向きの宮殿を構え、八幡太神、春日大明神、住吉大明神三神の大神を安置し奉ると云う。

その時に、百五十町の封戸、神佃(カミツクダ)を定め、又、速胤神主を神司(姓は宇佐、氏は廣田)との神託(シンタク)あり故に廣田の別当と云える、あるいは勅使役の彦信(姓は宇佐、氏は壇)は宮柱の武士(モノノブ)となして、速俱(姓は宇佐、氏は板橋)を鎮西の市の司(イチノツカサ)となし給う。

これより、廣田庄惣社八幡大神宮と崇敬し奉ると云う。又、所摂(ショセツ)の末社二十六座の御神を安置し奉り、四時の祭祀(年中行事)はこれを執行する。中に5月15日に御田植祭り(中古は能があっていた)、11月19日は勧請祭式日なれば、前18日の日は、神司の別当は御身躰を神輿に移し奉り、別宮は神幸し座す。

明治13年1月19日、下妻郡の内「廣瀬村、小田村、長田村、坂田村、文廣村、本郷村の六ケ村を山門郡に編入する。廣田八幡宮は文廣村に建立される。

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廣田八幡神社由来

下庄小学校創立百周年記念誌(昭和55年発行)P200~202

御祭神  住吉宮  表筒男神 中筒男神 底筒男神
     八幡宮  誉田別天皇(應神天皇)
     春日宮  武甕槌神

所在地  福岡県山門郡瀬高町大字文廣207番地(現みやま市)

廣田八幡宮の起源は社記によりますと、元明天皇の和同6(713)年に日向国隼人、川上静が朝廷に謀反したためしばしば征討の軍を進められましたが、皇軍はその都度敗れました。のちに元正天皇の養老4720)年に此のたびは豊前守宇努首男人を将軍に、再度賊徒征討の勅命がありました。この時、皇軍の戦勝を宇佐太神の広前に祈願し、三日三夜にして次のようなご神託がありました。

「筑紫なる御心廣田原に遷し、廣田県主廣田速彦麿を以て、吾御前を祭らば皇軍必ず勝つなむ、吾こそは八幡大神なり」と。

それで、この事を朝廷に奏上し、凱旋後筑紫廣田原に遷し奉ることを神前に誓い、仮宮を宇佐小山田に建て、廣田家第36代嫡孫廣田速彦麿が分霊の宮に斎祀したことは、ご神託の通りでありますが、この時始めて廣田速彦麿は廣田県主と神主とを兼ね、初代神官になりました。

而して此の年8月15日、征討将軍は凱旋して、宇佐太神の広前に参詣、凱旋報告と放生会を行い、ご神慮をお慰め申し上げました。その後、神主速彦麿は養老7(723)年3月朔日83歳、宇佐小山田で死去し、嫡子速胤が廣田県主兼神主となりました。

聖武天皇の神亀元(724)年2月、廣田県内田地五百町余の奉納があり、勅命により「此の奉れる五百町余の田地を以って廣田大神の神戸代と定め、汝速胤神主となりて父速彦麿の跡を継ぎ、即ち廣田大神を筑紫の廣田原に遷し奉れ」との仰せに従い、宇佐小山田より廣田県村部邑(現大字本郷)の仮宮に、同年5月15日遷幸安置し奉りました。

神亀5(728)年3月には従三位太宰師大友宿祢旅人は太宰少弐石川朝臣足人、並に前記征討将軍豊前守宇努首男人を差遣わし、更に三万坪の社地を(現定めて宮殿を廣田県方司邑
(現大字文広字芳司)に建て、同年11月19日ほぼ現在地に近く新宮殿を建立し、廣田大神には主祭神として宇佐ご本宮と同じく誉田別天皇(應神天皇)を祭祀しました。

廣田八幡神社は前記のように、古来「廣田大神」または現社殿掲額の「廣田宮」と呼ばれて参りましたがが、光格天皇の文化(1808)年、石鳥居新規建立の際法人法等の制令により、現在呼ばれる「廣田八幡神社」となりました。

廣田姓、壇姓、板橋姓の起源は、宇佐小山田で死去した廣田速彦麿には3人の嫡出子があり長男を速胤、次男を彦信、三男を速俱と言いました。宇佐小山田より皇大神の御霊を遷し奉るとき、嫡男速胤を神主として御神体の奉持、次男彦信は勅使役として御神体の跡詰を、三男速俱は先祓の神役として守護し奉りました。

また村部邑の仮宮に安置し奉るとき、次男は神座の土盛の壇を築き、土偏の壇姓を、三男速俱は瀬渡しの板橋を架け、板橋姓を名乗り、氏の氏神となった。
     
文広  広田速年記、

どんきゃんきゃん祭  

福岡県指定無形民俗文化財

「どんきゃんきゃん祭」は瀬高町本郷、文広に残る郷土の祭りである。記録などによると、四~五百年あるいはそれ以上の伝統の歴史があるものと思われる。

この祭は瀬高町文広に鎮座の廣田八幡神社の例大祭として毎年10月19日(以前は12月21日)豊年感謝のため行われ、同神社のお神輿が矢部川を渡御、約3km離れた本郷に鎮座される聖母宮神社まで、おみゆきされるご神幸祭の総称である。

この神幸行列の様子は、神社に伝わる元禄年間記載(1700年頃)の八幡宮縁起巻の下にも、威儀正しく行列の儀式が荘厳に行われること、列次順序等も細かに記されている。

この「どんきゃんきゃん祭」行列の直接関係者の数はおよそ200人にもなる。本郷及び文広の両氏子の全ての男子、幼稚園児は父親または祖父の肩車に乗って、総勢がみゆき行列に、参加する習慣が今も厳として残っている。

お神輿を迎える本郷氏子衆は全員素足に草鞋、鼻長天狗、獅子頭等を先頭に、風流旆、挟み箱、すっぽ、台笠、ばんばら等を、小中学生の諸君が担げば、長さ4m程の浮立(ふりゅう・毛槍)を青年衆20数名が、手の舞、足の踊を踏みつつ、投げては進み、進んでは受け、一歩一歩前進し、その後ろから、重さ4~5百kgもある漆黒金色燦然(さんぜん)たる、五色の幣に榊飾られた大神輿を白はっぴ、素足にわらじの青年衆30数名が「ワッショイ ワッショイ」と、押し合いへし合い毛槍浮立つの中へ割って入り、入っては戻り、戻ってはまたつき入って行くうちに、行列は次第に進み、その背後から「ドンドンキャンキャン」「ドンキャンキャン」の大太鼓と鐘を打ち鳴らし、大太鼓は大白御幣と緞子(どんす)の衣装に飾られ、太鼓打ちの少年は、獅子頭の赤熊、獅子舞衣装に十字襷、手甲脚絆にわらじばきの出で立ちで続いて行く、その後から神官達と本郷及び文広の当年の本坐組、新座組の座元が御幣を奉持して御伴をし、更にその後から御伴の文広氏子衆が続くのである。文広氏子衆の先頭には、麻裃姿の「みゆき方」と呼ぶ「あんや太鼓」に横笛の少年達、更に高張提灯の列、更に文広氏子よりお伴の大太鼓と鐘は、前の本郷衆と似た衣装に緞子の飾り付け、矢張り「ドンドンキャンキャン」「ドンキャンキャン」と獅子田楽舞を舞いつつ唄い進む。 

    高き屋にのぼりて見れば煙立つ
        民のかまどはにぎわいにける。

等と謡いつつ進む。その後からは、同じく文広区氏子の男衆が老も若きも羽織、素足に草履で総出、稚児は父や祖父の肩車の晴姿、毛布、花太鼓(ボテボテ)、頭に赤熊、十字襷に色とりどりの揚巻結びを背に垂らし、揺られ揺らげてお供をする。この一列長大な行列が矢部川を渡り、本郷聖母宮神社に至り、神輿も拝殿に静まられる。

少憩のあと神前の座前神事がり、帰還の途につかれ、これからの行事は、すべて文広氏子衆が迎えて八幡宮本宮に向かわれる。この頃ははや夕闇が迫り、矢部川の川面には、氏子衆の持つ提灯、少年達が捧げる高張提灯の灯が映えて、秋の夜風が冷え冷えと肌にしみるようになる。

文広  広田速年記


2015本郷ドンキャンキャン・千寿の楽しい歴史




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by kusennjyu | 2016-06-13 11:16 | 歴史学習会
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