人気ブログランキング | 話題のタグを見る
千寿の楽しい歴史
kusennjyu.exblog.jp
ブログトップ
2016山門郡邪馬台国論者の村山健治・千寿の楽しい歴史
山門郡邪馬台国論者の村山健治

村山健治

大正4(1915)年3月30日、福岡県山門郡瀬高町に生まれ。旧制八女中学校卒。

西日本鉄道、銀行に勤めるかたわら、郷土史に取り組む。

その間、発掘した遺跡50ケ所。古墳100け所。地質調査400ケ所。

発掘した遺物二万点、集めた古文書800冊にのぼる。

九州考古学会会員。瀬高町文化財専門委員。郷土史家。

昭和63(1988)年死去(享年73歳)

清水小学校創立百周年記念誌(昭和61年発行)

2016山門郡邪馬台国論者の村山健治・千寿の楽しい歴史_a0137997_16362887.jpg



2016山門郡邪馬台国論者の村山健治・千寿の楽しい歴史_a0137997_16365758.jpg



古代日本史上の最大のなどといわれる、「邪馬台国」の問題は、現在も学会の重要な問題として論争が続いている。邪馬台国が問題になるのは、日本の古代国家の起源とみられているからである。

『魏志倭人伝』によると、時代は三世紀前半で、倭(日本)は当時30以上の小国に分かれ、そのなかの邪馬台国は、女王卑弥呼をたて、他の小国を支配していたという。戸数は七万余、卑弥呼は景初3(239)年に魏の首都洛陽に使いを送って貢物をささげ、魏は金印と銅鏡百枚及び刀を渡したという。

『倭人伝』には、朝鮮から邪馬台国にいたる道筋、方向、里程が書かれているが、北九州の伊都国(糸島郡付近)あたりから後、解釈の仕方により、邪馬台国の場所についていろいろの説があるが、そのうちで邪馬台国の山門郡説は、最も有力な説である。

誰にもかけなかった邪馬台国  村山健治著

2016山門郡邪馬台国論者の村山健治・千寿の楽しい歴史_a0137997_16373553.jpg2016山門郡邪馬台国論者の村山健治・千寿の楽しい歴史_a0137997_16375335.jpg


2016山門郡邪馬台国論者の村山健治・千寿の楽しい歴史_a0137997_1639054.jpg



村山等安とその末裔   

村山トシ著(村山健治氏の妻)

村山健治氏は村山等安(豊臣秀吉の時に長崎代官任命される。)から数えて15代目になる。

村山健治の歴史履歴  

年月日・団体又は地名・内容の順で説明します。ねんすうn

年齢は昭和の年数に10を加えたものです。

昭和27年は銀行外交員で田圃の地下げ作業を見ると、自転車を止め注意深く眺めていた。古代土器の出土した時、山門郡の遺跡調査に取り組むことになる。東山村文化財保存会を結成する。女山神籠石・長谷水門・横尾水門などの調査をしてまとめる。

昭和29年8月に家屋敷を売り、清水小学校前に文具店を出す。

昭和31年は瀬高町と東山村が合併して瀬高町となる。東山地区の丘陵地帯が開墾され、蜜柑の木が植えられる。

昭和32年は瀬高町上坂田字中園で縄文後期の遺物出土する。九州大学考古学教室の鏡山先生の調査に同行者数人と共について行く。

邪馬台国郷土史会結成する。千歳保・賀々田永太郎(大和町)・堤傳(柳川市)・河野覚・椛島不二夫・村山の6人。

昭和33年12月は瀬高町大字山門字藤ノ尾一帯で地下げ作業(車塚周辺)。多数の土器の破片が出土する。広範囲にわたる住居跡と推定された。銀行を退職する。

昭和34年1月は藤ノ尾遺遺跡のことを鏡山先生に連絡する。
鏡山先生と学生2・3人で発掘調査。鏡山先生が報告書を発表する。
先生は環溝集落で平安期と推定。村山は溝の底部を調査しないと断定はできないと書いている。平野部は弥生期より、そうとう高くなっているはずである。

昭和34年8月は瀬高町大字大草女山の梅野茂芳氏所有の山が開墾される。古墳が多数発見された。8月20日から30日までのまでの10日間は東京大学(人類学教授)の鈴木尚博士と近藤四郎博士の土地の者10人が協力する。古代人の骨格を調べるのが目的。NHkのカメラが初めて現地に入り、古墳の中の状態を、そのままテレビニュースとして報道する。

昭和36年は九州考古学会に村山氏が発表する。「女山長谷古墳群」をまとめて謄写印刷する。

昭和37年6月は清水山道小谷で午から河野覚氏と再び出土地を調査する。縄文時代より以前の旧石器発見する。後清水山一帯の標高50m位の地点で次々と旧石器が発見された。

昭和38年は「山門郡地方遺跡分図」を作製する。東山先縄文遺跡」をプリントして発表する。廃品回収業をやめ、伊原電気店に就職する。ボーリングにより地質調査を開始。手帳に書き込み、夜には地質を図面に書きこんだ。掘り出した土を木箱に並べて地層の標本を作った。日曜日には遺跡調査に出て行った。

昭和39年秋は第1回郷土史展(旧石器より弥生まで)を開く。

昭和40年春は邪馬台国弟1回研究会発表会を行う。昭和40年秋は第2回郷土史展(旧石器時代より古墳時代まで)を開く。

昭和41年は山川町面ノ上で小円墳発見する。

昭和43年は清水寺三重塔改築落成と共に郷土史資料館も完成する。

昭和43年から昭和44年暮は落慶祝賀式典の後、発熱して横倉病院に入院する。伊原電気店を退職する。
7月、吐血、瀕死状態となる。輸血を続け、胃潰瘍の手術を受ける。入院中に古墳が見つかったと聞けば調査に行く。又、文化祭の飾り付けに行く。

昭和45年の病院退院後、瀬高町文化財専門委員を任命される。昭和45年12月は瀬高町朝日瀬高縫製工業所に入社する。元の村山家の屋敷跡。従兄弟が設立した会社。

昭和47年は瀬高町大字大草で大道端遺跡発掘調査に協力する。

昭和49年は瀬高文化協会の中に地方史部を結成し会長を務める。昭和49年7月は瀬高縫製を退社する。
退社後は広報誌「せたか」・文化協会誌・九州考古学会誌に「邪馬台国」や「神籠石」を投稿する。『邪馬台国』や『卑弥呼』。に古墳の調査資料や論稿などを投稿する。昭和50年、「山門のふるさと1号」に山門郡の遺跡を発表する。文化セタカに「大神について」書く。

昭和51年、文化セタカに「大神こうやの宮」書く。瀬高町上小川、名木野古墳群の石棺出土を聞き調査する。

昭和52年、文化セタカに「水神、河童、乙姫」を書く。

昭和53年10月に『誰にも書けなかった邪馬台国』を佼成出版社から出す。その後講演と遺跡案内、資料をまとめることができない。

昭和54年は山川町九折で大塚古墳調査。健康診断受診以後、眼が悪くなり通院を続ける。肝臓に腫瘍が見つかる。

昭和57年は瀬高町坂田の権現塚で幅11mの周溝をめぐらせた段つきの円墳で祭儀の跡も残っていた。
その周辺の縄文・弥生の住居跡、甕棺・土器などの出土品が詳細に記載されている。瀬高町教育委員会報告書提出する。大牟田市立病院入院して眼の手術を依頼する。

昭和62年は久留米医大に移り白内障の手術を受けた。

昭和63年2月は大牟田市立病院に入院して1ケ月で退院の許可が出る。

昭和63年7月31日に死去する。享年73歳。

妻村山トシの感想

夫村山健治は限りなく純粋な人であった。邪馬台国に憑(つ)かれ、そのために生き、そのために死んでいったと言える男であった。

かつてはその生き様が、静かなものと見えたが、今にして思えば凄絶なものであったことを、私は誇りをもって知ることができるのである。

当時の週刊誌写真より。


2016山門郡邪馬台国論者の村山健治・千寿の楽しい歴史_a0137997_16523470.jpg



2016山門郡邪馬台国論者の村山健治・千寿の楽しい歴史_a0137997_16525170.jpg








 
by kusennjyu | 2016-06-14 07:25 | 歴史学習会
|Topに戻る