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千寿の楽しい歴史
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2016村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(こうやの宮)・千寿の楽しい歴史
村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(こうやの宮)

平成28年6月14日(火)

探検者:4人 原田青夜氏・瀬口(女性)・熊川猛司・私

こうやの宮

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『誰にも書けなかった邪馬台国』  村山健治著

七支刀は魏王の下賜品か  p135より

2016村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(こうやの宮)・千寿の楽しい歴史_a0137997_16521419.jpg瀬高町大字太神(おおが)字長島(おさじま)という部落がる。このお長島に栗ノ内という小字がある。そこに表を位七軒の民家に守られるように、そして背には田をひかえて建つ「こうやの宮」がある。神社だが祠といった方がいい社である。

この「こうやの宮」に五つのご神体が祀ってある。頭に皿のある、しかし背に甲羅はないカッパ、手に鏡を持った乙姫、住吉神、異国の神らしい像、そして服装が中国風と受け取れる武神である。この武神は手に刀を立てている。まぎれもなく七支刀である。


「こうやの宮」のいわれも、ご神体の由緒も伝わっていない。ただ、氏子である七軒の民家には、「こうやの宮をだいじにせよ。こうやの宮の屋根をふきかえ、その後で田中の宮、にしの宮の屋根をふきかえよ」との、代々の遺訓が残っていた。氏子たちは忠実にそれを守ってきた。

「にしの宮」とは、同じ長島にある社である。小さい部落にすぎないが太神に、かなり古い頃からの神社が十七社現存していることと、長島はこの地方ではウサジマと呼ばれている。

「こうやの宮」と石上神宮  P139より

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大和朝廷の確立後、九州に大宰府が置かれた。この大宰府が、天慶4(941)年から7(944)年にかけて、筑後国にあった六位以上の神名を記録した。この古文書が『天慶神名帳(てんぎょうしんめいちょう)』と呼ばれ、久留米市の高良神社に現在も残っている。

その山門郡を見ると、磯上物部神(いそのかみもののべかみ)、物部阿志賀野神、物部山国神、そして物部田中神二神、なんと物部の神だけで五神がある。六位以上の神が山門郡全体で二十六前のうち、五前が物部神である。

『天慶神名帳』に載っている神名を現存する神社と対比していくと、およその神々を当てはめることができる。「こうやの宮」は、その昔、磯上物部神だったと推定できる。

現在の「こうやの宮」には、中央に高良神と思われる主神、その右に乙姫と七支刀を持った武神、左側は中国人らしい異国の神、水神であるカッパが祀ってある。この五神のうち七支刀を持った武神が磯上物部神ではないかと考える。この主神プラス武神と水神の組み合わせが、神の性格からいって高良玉垂宮と同じである。

物部一族は昔、瀬高町太神の長島にいたのであろう。魏王から卑弥呼に与えられた七支刀は、武将物部氏によって保管されていた。だから、その氏神に、七支刀を持った武神が祀られた。

太神地区と大神氏  P254より

十世紀にできた『和名抄』に山門郡は山門、大神、草壁(現大草の三郷から成っている、と記載されている。そして、『和名抄』には漢字の読み方も載っている。山門を夜万止(ヤマト)、太神を於保美和(オオミワ)、草壁を久佐加部(クサカベ)と、発音を記録してある。

その昔太神は「オオミワ」と呼ばれていた。『姓氏録』でも大三榮となっており、漢字は異なるが同じ発音を表している。

太神の中の字の一つに宮という所がある。この宮は、三重の溝に囲まれている。つまり三輪である。太古の日本では聖地は三重の輪で囲む習慣もあったようだ。神社を宮というのも、そのあたりに起源があったと思われる。

太神をオオミワと呼んだのは、偉大なる聖域だったからであり、漢字伝来後にオオミヤの発音に太神を当てたのは、ミワすなわち神、あるいは神域だったからだろう。

太神に隣接している三池郡高田町大字海津(昭和34年以前は山門郡山川町大字海津であった)も昔は太神郷に含まれていたと思われる。

宇佐神宮―宇佐嶋―長島  P257より

『日本書紀』に「筑紫の水沼等が」三女神を祀っていると書いてある。『古事記』には、この三女神を胸肩君らが祭く、と書いてある。水沼も阿曇も海神族で、安曇磯良丸の墓は三潴郡(現在の大川市酒見)にある。安曇と水沼はつながる。従って三女神を祀ったのである。

『記紀』に従うと、三女神を祀ったのは、南から福岡県山門郡、三潴郡、宗像郡の昔の豪族たちである。

『天慶神名帳』の山門郡二十六前の神々の中に、宗形本神という神名がある。胸肩君が祀った本神が、ここ山門郡にあるというのだ。

古文書『宇佐宮雑徴』に江戸時代の天保年間に、宇佐神宮の神官・敷田年治の著した文書がある。その中で、敷田年治は、
「宇佐嶋は、島原を遠く離れない、有明海の周辺にある」と断言している。
また当地方の方言の訛りでは大塚を「ウウツカ」と発音する。同様に長島もウサジマという。
私は『記紀』にある「宇佐嶋」は福岡県山門郡大字太神字長島と断定する。

「こうやの宮」に甲羅のないカッパ像が祀ってある。もちろんご神体である。石や祠のご神体についで、山門郡の最も古い形の祭神は、主神、乙姫、カッパの三つを並べて祀る形である。これを「水沼信仰」と名づけている。太神だけでも、乙姫宮、太神宮、釣殿宮、八才宮、真木の宮などに、現在もこの三神が祀ってある。

大神氏と八幡信仰  P261より

大神氏はオオミワ氏であり、大国主命の子孫だという。

瀬高町大字太神には「大国西命は太神の字長島から出雲に移った」という口伝が残っている。
また、太神には因幡姓がある。因幡国のあの因幡だ。その家には
「先祖は遠い昔、山門から太神に移ってきた。山門には因幡の地名が残った」との口伝も残っている。瀬高町大字山門には、間違いなく因幡の地名が残っている。

写真の旧山門村の上部の中央に「因幡」地名がある。

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神話にある因幡の白兎とワニのごたごたも、実は太神の因幡氏と熊本県玉名郡三加和町の和仁(ワニ・山川町真弓から山越えした東側の地名である)とのトラブルだと考えられる。

太神の長島に「にしの宮」という社があり、出雲大社は別名「西の宮」と呼ばれる。
長島の釣殿宮の境内に「西の宮」という小社がある。『天慶神名帳』に残る山門郡二十六前の「物部阿志賀野神」(大黒さん)と思われる。

続きます。




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by kusennjyu | 2016-06-17 16:58 | 歴史学習会 |Topに戻る