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2016大牟田の空襲 第28集より「防空壕への直撃弾で家族四人を喪う」
防空壕への直撃弾で家族四人を喪う
  
大牟田の空襲 第28集より  IS氏

はじめに

1945(昭和20)年6月18日には、私にとつて肉親4人を一瞬にして失った日として生涯忘れることが出来ません。終戦が後二ケ月早かったらと思うと残念でなりません。

私は1934(昭和9)年3月生まれです。空襲の時は11歳で、第二国民学校(現大牟田市立大牟田小学校)の六年生でした。自宅は泉町にあり、大牟田川沿いで家業は薬局を営んでいましたが、1944(昭和19)年の建物疎開で曙町への引越しを余儀なくされ、そこから店へ通うかたちになりました。丁度その引越しと同時に薬剤師の父は召集され、特攻基地のある宮崎県都城市の陸軍病院に勤務していたのです。
 
私の家族は、両親と祖母、それに私のきょうだいが6人(姉3人、兄2人、妹1人)の合計10人でした。

防空壕に避難

1945(昭和20)年6月18日の大牟田空襲には父は召集され、長姉は嫁ぎ、長兄は寮生活でしたので曙町の家には7人の家屋がいました。

当日(6月18日)の深夜、空襲を知らせる短い連続のサイレンが鳴り響き、ラジオで敵機B29の編隊が天草上空を北上中と報じるや否や、我が家の周辺にはバラバラと焼夷弾が落ち始め、気が動転した私たち家族は、庭にあった小さな防空壕では思い込み、少々離れた西本願寺知恩院の壕がより安全だと考え、無我夢中で皆(私を含め5人)で知恩院へ走り出しました。次兄は祖母を背負って泉町の横穴式防空壕へ避難していました。
 
知恩院の壕に入る前、斜め前方に見えたビル(マルヤ百貨店)が炎を上げて燃えだしていました。

防空壕に焼夷弾直撃

防空壕の中には私が一番先に駆け込み、奥の方まで進みました。その、ほんの数メートルの差が運命を分けることになったのです。私たちが防空壕に入ると同時にドーンと直撃弾がさく裂し、壕の天井が崩れ落ちました。私は腹部と顔などに火傷を負い、外にはい出るのが精一杯でした。壕の中は雨水で水溜りになっていましたが、そこに焼夷弾の油脂が浮かんで燃えていました。私は倒れている人たちを乗り越えて外へ出て、そこで気を失ったようです。壕の中には40人ほどの人が居て11人が亡くなり、そのうちの4人が家族でした。

死ぬために入った防空壕

私は運び込まれた兼行病院で意識を取り戻しました。火傷はそれほど重症ではなく、家業が薬局のため薬も調達しやすかったことも幸いして、比較的短期間で退院出来ました。その後も警戒警報・空襲警報のたびに担架に乗せられて笹林公園に避難しました。7月1日の熊本空襲の時は、炎の反射で南の空が赤くなっているのが担架の上から見えました。

泉町に住んでいた頃は、いつも訓練で金比羅さん下の横穴式防空壕に避難していましたが、母や姉・妹もそこに逃げていれば死なずにすんだと思います。曙町に移ったのは死ぬために行ったようなものでした。結果的には、逃げ出した曙町の家は無償で残りました。家の防空壕に入っていれば助かったのです。このことが今もなお悔やまれます。

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ありがとうございました。






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by kusennjyu | 2016-08-03 10:13 | 歴史学習会 |Topに戻る