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千寿の楽しい歴史
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2016菅原道真公絵巻(天井絵)の解説・巻一後半・千寿の楽しい歴史
菅原道真公絵巻(天井絵)の解説・巻一後半

肥前一宮 與止日女神社

巻一 道真、都良香の家で弓技を示す・後半

貞観12年(870)、今をときめく都良香の家で、門生たちが弓を競っていた。折から道真が訪ねてきた。道真に弓の心得などないであろうと侮った門生たちは、道真に弓を勧めた。

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場面 十~十二

弓場の周りに上畳を運び出して、射手たちの座とした。門生たちは尻込みする道真を射席(いむしろ)に押し出した。「どうせ、弓の本筈、裏筈の区別も知らないであろう。」
と、多寡をくくっていた。が、肌脱ぎになった道真の肩を見て驚いた。肉が盛り上がり、筋骨がたくましい。

道真は、左手に握皮をつかみ、矢をつがえると、満身の力を込めて弦(つる)を引き絞った。
呼吸を整えて矢を放つ。ねらいは的中した。周囲はどよめいた。別座の朽葉色(茶色)の衣装が都良香である。

山桜の幹近くに的が設けられている。的の傍らに的中した矢を射席(いむしろ)に告げる男がいる。満身の力を込めて、道真が懸命に弦を絞る第一の矢が、的にはっしと当たる。続いて第二、第三の矢も。まさしく百発百中である。

※本筈・裏筈:弓に弦をつがえる場所。

道真、権大納言に任じ右大将を兼ねる

寛平7年(895)3月23日、醍醐天皇の御代であった。「唐には、1日100編の詩を作る人がいるという。汝も1時の間に、詩を10種作ってみよ。」と詩題を与えられた。

道真は、酉刻(午後6時頃)より戌刻(午後8時頃)の間に作り上げた。その後もたびたび下命(かめい)により詩を作った。やがて同9年には、位一階を進め、中納言より権大納言に昇り、右大将を兼ねた。

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場面 十三~十四

中納言から位一階を進められた道真は、拝賀のために参内した。図は、清涼殿であろうか。とすると階の両側に立つ柱が不自然である。
衣冠に威儀を正した道真は、裾を長く引いている。あでやかな衣裳をまとっている。
笏(しゃく)を構えた横顔に当代隋一と謳(うた)われる漢学者の自負の表情がよぎる。

道真、右大臣に昇る

昌泰2年(899)2月14日、道真は右大臣に任ぜられた。右大将はそのまま兼務。56歳であった。この日、藤原時平が左大臣に任じられ、左大将を兼ねた。年は29歳。
翌3年8月頃、祖父清公(きよきみ)の歌集、父是善の歌集、それに自らの文章20巻、さらに父祖三代にわたる詩の名句を漏らさず、醍醐天皇の御覧に供した。これを見た醍醐天皇は、自らも詩を作って褒(ほ)め称(たた)えられた。

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場面 十五~十六

前段と同じ構図。簾(みす)を掛け渡した奥の一間は、昼御座(ひのおまし)。
図は、左・右大臣の発令にともない、任大臣拝賀のため、両大臣が参内したところ。
装束を正し、弓矢を持ち控えるのは、左大臣時平の随身であろう。

かたや烏帽子をかぶり、赤い狩衣を着用した武官は、右大臣道真の家来である。
暗黙のうちにも、眼と眼が火花を散らす。やがて巡ってくる運命の導火線は、すでにこの日に点火したのであろうか。

道真、吉祥院で五十賀を行う。

寛平6年(894)10月、道真は50歳になり、吉祥院で五十賀の法会を営んだ。
法会半ばに、藁の沓(くつ)・脛巾(はばき)をつけた老人が歩み寄った。手に願文と砂金の包みを捧げている。老人は、本堂の前に据えた机の上に、それを置いて立ち去った。
講師の小像都勝延(しょうぞうずしょうえん)が、願文を開くと、驚いたことに、道真の五十賀と聞いた天皇が、結縁のため砂金を喜捨されたのであった。

場面 十七~十八

吉祥院金堂の内陣。長押(なげし)や柱に華鬘(けまん)や幡(ばん)を掛けて、荘厳を尽くしている。
奥の、黒い法衣に七条袈裟(けさ)を掛けるのが、導師の勝延。簀子の上には、一門の人々が居並ぶ。女は一様に、白い被衣(かずき)を着て、赤い懸帯(かけおび)を掛けている。
庭先に、一人の老人が願文と砂金の包みを持って現れた。

醍醐天皇、宇多法王の朱雀院に行幸

昌泰3年(900)正月3日、醍醐天皇は宇多法王の朱雀院に行幸した。
帝と法王は、密談を交わした。
「左右の大臣は同時に起用して、天下の政務を行うのは、よろしくない。」と。
というのは、「時平と道真の仲がどうもしっくりゆかぬ。」と聞かれた帝が心配のあまり、宇多法王に相談をもちかけたもの。
そして、どちらか一人を重用することにしては、と帝と法王の密談は一決した。
「才においてまさる道真にこそ、政務を担当させるべき。」と。

道真は再三、固辞し続けた。「このお召を、群臣たちがいぶかるのでは。」と心配した道真は、とっさの機転で、詩を献じて、その場は事なきを得たがこれにより左大臣の心も少しは打ち解けた。
やがて、密議のことが露見してしまった。時平は、烈火のごとく怒って、道真に無実の罪を仕掛けることにした。
「法王の第三皇子斎世親王(ときよしんのう)の妃は道真の娘。道真がこの婿の親王を帝位につけんと画策している。」といいふらしたからたまらない。
この讒言は、たちまち功を奏した。

翌、昌泰4年正月25日、道真は太宰権師(だざいごんのそつ)に左遷され、筑紫国に配流(はいる)となった。降って湧いた無実の罪に、道真は深い悲しみに包まれ、一首の歌を詠んだ。
(流れゆく、我が水屑となりぬとも、君柵となりて留めよ)

この歌をみた宇多法王は、深く悲しんで、わが子醍醐天皇に赦免の嘆願に出向いた。清涼殿に近づいたが、蔵人頭藤原菅亮根が、昔の恨みをふくんでいたので、取次ぎがなかった。

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場面 十九~二十一

鴟尾(しび)を載せた壮麗な宮門がみえる。これは朱雀院の一角。太宰権師に左遷と決まった道真が、内庭の中で、宇多法王に心中の悲しみを訴えている。
むろん、時平に仕組まれた罪の無実を綿々と言上する。

若い法王は(35歳)は香染めの法衣を着け、水晶の念珠をまさぐっている。
「そなたの苦しみ、いちいちもっともなるぞ。醍醐の君は朕が子。これから殿上(清涼殿)に参って、かならず、助けてとらせようぞ。嘆くでないぞ。」と道真をはげますのであった。


続きます。







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by kusennjyu | 2016-12-02 13:56 | 歴史学習会
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