千寿の楽しい歴史
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2016菅原道真公絵巻(天井絵)の解説・巻二後半・千寿の楽しい歴史
菅原道真公絵巻(天井絵)の解説・巻二後半

肥前一宮 與止日女神社

道真、恩賜(おんし)の御衣(ぎょい)をしのぶ

道真一行は、つつがなく大宰府に着いた。そのまま、配所の生活に入った。9月10日の朝のこと、道真は、ふと昨年の今日を思い出した。

昌泰3(900)年9月10日、重陽の宴が、宮中で行われた。正三位の右大臣、それに右大将を兼ねた道真は、栄華の絶頂にいた。その時に醍醐天皇にその働き振りを褒められ、当座の褒美として、帝は御衣を脱いで、道真に賜った。道真には、その日の華やかな宴の様子が、まざまざとよみがえった。

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場面 三十三

配所における道真の生活は、質素の限りであった。家も板屋根、隙間から月のもれることも一再ではなかった。が、彼は耐えた。

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場面  三十四

9月10日の朝のこと。庭に白菊が咲き乱れている。これに、ふと眼を落した道真は、昨年の重陽の宴を思い出した。

「たそある。奥の行李(こうり)から帝様の御衣を持って参れ」。道真は、恩賜の御衣を思い出した。うやうやしく拝し終わると、道真の口から詩がもれた。

近習たちは、涙にかきくれた。道真もまた、袖で涙を押さえるのである。

紀長谷雄(きのはせお)、道真の『後集(こうしゅう)』に泣く

道真は、延喜元(901)年8月以降、大宰府の配所でつくった詩文を『後集』と名付けた。延喜3(903)年正月のころ、道真は病にかかった。いっこうに快方の兆しがみえない。

道真は、この際にと、それらの詩文を取り集めて、京の紀中納言・長谷雄のもとに送り届けた。これをみた長谷雄は、びっくりした。一篇一編に天を仰ぎ、地に付すような、悲しい思いがこめられている。長谷雄は、涙がとめどもなく流れた。

場面  三十五~三十六

これは、紀長谷雄の邸。はるばる西海のはてから運上された、道真の詩文集の箱が届いた。中から、ぎっしり集まった詩文の紙が出てきた。

どれも、どれも肺腑(はいふ)をえぐるような、道真の苦吟で、一紙ごとに長谷雄は涙するのであった。「いたわしやの。道真殿のご心中、察するにあまりあるというもの」。旧知の筆の跡も懐かしくはあったが、それにもまして、詩文の文言に鬼気(きき)迫るものを察知したのである。

道真、天拝山(てんぱいざん)頂に無実を祈る

大宰府の配所で、日を送っていた道真は、ある日のこと、祭文(さいもん)をつくり、7日を限って、天道に、自らの無実を祈った。すると、祭文が高く飛び上がって、帝釈宮を過ぎ、梵天宮までも、高く高く昇った。

やがて、延喜3(903)年2月25日、道真は病死した。期せずして、釈迦の入滅と同じ月の10日後であった。ついに、道真は天満大自在天神となった。

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場面  三十七~三十九 

険しい岩山の峰が打ち続く。中央にひときわ高いいただきが、天拝山。

束帯姿の道真が、文杖(ぶんじょう)の先に祭文を結び付けて、天道に祈っている。黒い袍(ほう)の下から単衣の赤がこぼれている。黄金造りの飾太刀に裾を掛けている。

7月7日夜の祈請が功を奏し、ついに道真は天満自在天神になるのであった。

道真の死に際しては、日本国中が怨霊のたたりを恐れて、身の毛がよだった、という。

道真の没後、安楽寺に葬る

墓所を筑前国四(王)寺(しおうじ)に定め、柩(ひつぎ)を運ぶ途中、牛が路上にうずくまって、一歩も進まない。やむなく、そこを墓所と定めた。今の安楽寺がこれである。
まことに不思議なことである。

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場面  四十~四十二

配所で横死(おうし)した道真の遺体を、筑前国四(王)寺に葬ることになった。柩を乗せた車が夜道を急いだ。近習や僧、それに警固の武士たちが従がった。突然、牛が前足を折った。続いて後足を折ると、路上にへたり込んでしまった。

牛飼いの童(わらべ)が、いくら口綱を引いても、まるで根が生えたように、動こうとしない。

「これはしたり。いったい、どうしたというのじゃ」。人々はいぶかった。「四(王)寺までは、まだかなりの道のりがあるというのに、困ったことじゃ」。

やがて、一行の中の1人が気づいた。「そうじゃ、そうじゃ。道真様の霊魂(れいこん)は、ここにおとどまりなされたいそうな」「いっそ、ここにご埋葬申し上げたらどうであろう」と。

人々に、深い悲しみが襲った。一同は、とりどりに袖で涙をぬぐった。松明が、ひとしきり燃え盛った。

闇の中を、僧衣の袖をたくし上げると、早くも二、三人の僧侶が、鋤(すき)で墓穴を掘り始めた。「お主ら、めそめそ泣いている場合ではないぞ。片時も早く、道真さまのご遺骸を、葬り奉(たてまつ)ろうぞ」と、力むのであった。

道真の亡霊、法性房(ほっしょうぼう)を訪ね、柘榴(ざくろ)を食して火を吹く

道真の死後、ほどないころの夏の夜。延暦寺の座主(ざす)・法性房の住房の妻戸を叩く者がある。

みれば、道真の亡霊が立っているではないか。しかも、生前の姿のままである。

亡霊は、やおら口を開いた。「いま宮中に参って、帝に怨みを報ぜんと思う。」という。われに法験(ほうげん)を得させよ、と迫るのであった。

尊意(そんい)は、さまざまにとりなした。日本国中はすべて王土である。この地に居ながら、もしも私が、綸言(りんげん・天子の言葉)を三度も受けるようなことがあったら、いかがなさる、と迫った。すると、亡霊は二の句がつげなくなった。

そこで喉も渇いたであろうと、尊意は亡霊に柘榴を差し出した。亡霊が、口に含んで、それを妻戸に吐きかけると、火が燃え上がった。が、尊意が灑水(しゃすい)の印を結ぶと、火は消えた。

妻戸(法性房の焼け扉)と呼んで、いまも叡山の宝物になっている、という。

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場面  四十三~四十五

これは叡山の座主、法性房尊意僧正の住房。尊意は、40歳であった。夏の夜のこと、妻戸を叩く者がいる。開けてみれば、道真の亡霊である。やがて2人の会話が始まる。宮中に参入して、帝に怨みを述べんという道真を、尊意はおしとどめる。

不動尊の画像を掛け、前机には、佛具の一式が飾られている。道真の前には、小机にのせた柘榴がみえる。妻戸には、火がめらめらと燃え上がっている。

これは、亡霊が口に含んだ柘榴を吐きかけたところであろう。

巻三に続きます。






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by kusennjyu | 2016-12-08 11:45 | 歴史学習会 |Topに戻る