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千寿の楽しい歴史
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2017車塚古墳(瀬高町山門)・千寿の楽しい歴史
車塚古墳(くるまづかこふん)  

瀬高町山門(市指定史跡)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)P266~P269より

みやま市教育委員会発行。


車塚古墳は、返済川およびその支流の旧河川が形成した標高8m前後の自然堤防上に位置する前方後円墳です。古墳の原状は、後円部から前方部の墳項に祠(ほこら)と公園があり、その整備のため墳丘上部がかなり削られています。またかつて周囲の水田には古墳周濠の痕跡はわかりづらくなっています。

これまで古墳自体の発掘調査は行われていませんが、平成元(1989)年に瀬高町教育委員会が圃場整備に伴い、古墳北東周濠隣接地を藤の尾車塚遺跡として発掘調査をしています(文献1・2)。この藤の尾車塚遺跡では、弥生時代中期の甕棺墓群と、弥生時代後期~古墳時代前期前半ごろにかけて営まれた多数の竪穴住居などを確認しています。特に弥生時代後期~古墳時代前期前半ごろの集落は、古墳時代前期後半~中期前半に断絶していると考えられることから、本古墳の造営時期との関連が注目されます。

本古墳の規模は、大正15(1926)年刊行の『山門郡誌』によると、長さ27.5間(約49.7m)、幅15間(約27.1m)、高さ2間(約3.6m)の周濠、前方部の左右に陪塚とされる円墳が各一基存在していたようです(図4・文献3)。昭和49(1974)年刊行の『瀬高町誌』によると、本古墳の規模は南北約55m、東西約27m、高さ約3.5mで、明治22(1889)年ごろまでは周囲に幅3.6mの周濠が巡っていたこと、また享保20(1735)年に鏡三面が掘り出され、その後古墳中央の祠に収められていましたが、現在は残っていないことが記述されています(文献4)。

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図3の測量図は、福岡県教育委員会が、昭和40年代後半~50年代に県内主要古墳の総合的調査で実施した航空測量の成果品で、現在では、この図と原状の道路および田畑などと照らし合わせたところ、公園整備によりその後の改変を受けているものの、車塚古墳の測量図であると確認できました。

図3によると、本古墳は北北西に前方部を向ける前方後円墳で、墳丘主軸長51.5m、後円部径27m、高さ3m弱を測り、先述の『瀬高町誌』で記された南北約55m、東西約27m、高さ約3.5mに比べ、後の公園造成や田の耕作などのよって、さらに削られていることがわかります。後円部は長楕円形を呈しているため東と西が大きく削られたと思われ、また角張った円形状を呈する前方部先端部も墳丘裾部中心に大きく削られていると予想されます。標高10.5m余りを測る前方部先端はそこから1m近く削平されています。また、古墳に伴う段築成や埋葬施設は確認できません。

墳丘の周囲に残る周濠の痕跡は、その形状を残すと思われる南~東部分で幅17~20m程度と、先の『山門郡誌』および『瀬高町誌』に記載された幅3.6mとは大きく差があります。特に北東部がかなり広がっており、後に周濠部分を拡張したため、幅が広くなっている可能性があります。本来の周濠の幅は、古墳進入路として後円部先端に小さな橋が架かっている箇所とその南側の田との距離が5.5mであることから、この部分が本来に近い周濠の幅を示すと思われます。また、前方部先端北西の周濠痕跡の狭い部分も大きく削られた本来の墳丘からすると周濠の痕跡が残っている可能性があります。

出土遺物は現存していませんが、これまで先学により、本古墳から出土した銅鏡は『耽奇漫録(たんきまんろく)』に記載された「車塚神鏡」がそのうちの一面である可能性が指摘されています(文献5)。

『耽奇漫録』は、文政7(1824)年5月から翌8年11月まで20回にわたり開催され、珍奇な古書画・古器物などを持ち寄り、考証を加え論評しあった「耽奇会」という好古、好事の者の会合の記録です。その会合に江戸詰の柳川藩士であった西原一甫(1760~1844年)も主要メンバーとして、藩命により柳川に下向するまで(第一回~第十二回)参加していました(文献6)。

その第十回の会に、西原一甫は「車塚神鏡」として一面の獣帯鏡を出品したことが『耽奇漫録』に記録され、その図とともに解説として、車塚古墳から鏡三面が出土し、三面のうち一面を図示したことが記載されています。

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図7は西原一甫旧蔵で、現在伝習館文庫所蔵の『耽奇漫録』(計十二冊)に図示された車塚古墳出土鏡です。『耽奇漫録』はいくつかの写本が現存しますが、そのうち復刻されている国立国会図書館蔵版(文献7)は文様部分など原本に近い図7に比べ簡略化しており、以下では伝習館文庫所蔵のものにより検討を行います。

図7から、本鏡はこの当時すでに破片で、内から鈕(ちゅう)、鈕座、圏帯(けんたい)、内区主文部の約二分の一が欠けています。面径は不明ですが、『邪馬台国探検記』によると、径お二十二cm、取手(鈕座の径か)5.6cmで、天竜の尾(外区の獣文帯か)を刻んでいるとされます(文献8)。

文様構成は、欠損する鈕の外側には櫛葉文帯(くしはもんたい)、圏線、有節重弧文(ゆうせつじゅうこもん)、圏線からなる鈕座があり、その外側には内は細い圏線と外は圏線・櫛葉文帯で囲まれた狭い内区主文部、隙間の存在から内区から緩やかに傾斜し、一段高くなると考えられる外区は外向きの鋸歯文、圏線、流雲状(りゅううんじょう)の獣像で構成され、その外側の縁部は素文であったと予想されます。

鈕座は、有節重弧文までは距離があることから、最も内側の櫛葉文帯の内側に文様帯が存在した可能性があります。その外側の内区主文部は突線で獣像を細かく表現したもの(細線式)と思われますが、乳、獣像などが明確に図示されていません。突線で描かれた四神や獣像が西原一甫には理解されなかったとは考えづらく、図が描かれた時点ですでに内区主文部は破片になっており、図像が分かりにくかったため理解されず図化されなかったと予想されます。また乳は表現されていません。像の隙間は芝草文で埋められていると考えられます。

外区の流雲の獣像帯は突線で尾を表現し、左向きの可能性があります。

以上から、本鏡は細線式獣帯鑑の可能性が高いこと、圏帯の素文突帯+有説重弧文+素文突帯、内区主文部外側の櫛葉文帯、外区の鋸歯文+獣文帯というモチーフは、浮彫式ですが熊本県江田船山古墳出土鏡とよく似ており、車崎正彦による『六朝鏡』に本鏡も含まれると考えられます(文献9)。本古墳の年代は、この鏡と先述した藤の尾車塚遺跡の集落の断絶時期から四世紀後半~五世紀に属すると想定されます。

本市内では五世紀以降の首長墓としては、五世紀初頭と考えられる円墳の面の上一号墳、五世紀後半~末の帆立形タイプの前方後円墳であるクワンス塚古墳と赤坂一号墳、六世紀前半の九折大塚古墳が山川町河原内の台地上に集中する一方、大型円墳の権現塚古墳や本古墳が平野の自然堤防上に立地します。この平野部の
首長墓系列は本古墳、権現塚古墳、詳細が不明な蜘蛛塚古墳など五世紀にかけて首長墓系列が存在すると推測できますが、そのほとんどは未調査のため詳細は不明です。本古墳は墳丘の残存状況は良くありませんが、銅鏡が三面出土し、そのうちの一面と考えられる図が残っていること、古墳の築造に伴い集落が断絶したと考えられることなど、みやま市の古墳時代を考える上で重要な古墳です。

続きます。





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by kusennjyu | 2017-06-23 17:53 | みやま市の歴史
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