人気ブログランキング |
千寿の楽しい歴史
kusennjyu.exblog.jp
ブログトップ
2017女山神籠石(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史
女山神籠石(ぞやまこうごいし)

瀬高町大草(国指定史跡)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P391~P397より

みやま市教育委員会発行


女山神籠石は、市の北東部にあたる市瀬高町大草字女山に位置します。筑後平野と有明海沿岸部まで俯瞰(ふかん)できる古塚山の山頂部(標高約190m)を最高所する西斜面に築かれ、馬蹄形に延びる列石が約1.5kmにわたって確認されています。北と東側には列石、土塁線は確認されていませんが、推定2.7~3kmに周ると推定されています。列石を横切る4つの谷を包谷しており、それぞれの谷には南より産女谷、源吾谷、長谷、粥餅谷(横尾寺谷)の水門が設けられています。

昭和28(1953)年11月14日に国指定史跡となりましたが、当初指定範囲は、列石両側幅10mおよび水門遺構の1万5427.40平方メートルでした。その後、同52(1977)年7月14日付で11万9828.51平方メートルを追加指定され、指定面積は
13万5255.91平方メートルとなりました。現在、一部が女山森林公園として市民に親しまれています。

神籠石の名は、明治32(1899)年に小林庄次郎が『東京人類学雑誌』に「筑後国高山中の「神籠石」なるものに就いて」で紹介したことで全国に知られるようになりました(文献1)。

この中で、福岡県久留米市高良山の列石について、列石は神霊の宿れる霊地、神聖に保たれた場所を区画するものとされました。しかし、明治33(1900)年に、山城説が提唱されたことにより(文献2)、明治・大正期に「神籠石論争」という形で激しい論争が展開されました。

その後、神籠石は、列石や土塁の有無などの検討が盛んに行われ、昭和38(1963)年に佐賀県武雄市の「おつぼ山神籠石」、佐賀市の「帯隈山神籠石」の発掘調査により列石上に土塁が構築されていることと、前面に柱穴を伴うことなどから、神籠石が古代山城跡であるとする山城説が有力となります。

女山神籠石においても、昭和42(1967)年、昭和46(1971)年、昭和56(1981)年の調査で、列石上に土塁がされていることと、前面の柱穴を確認しています。

古代山城には、「神籠石系山城」と「朝鮮式山城」があります。「神籠石系山城」は『日本書紀』・『続日本記』などの史書に記載がなく、列石と谷部に水門遺構を持つ史跡で九州から瀬戸内海沿岸に所存します。

神籠石という名称の国指定史跡は、山口県の石城山神籠石(1935年6月7日指定)、福岡県には、雷山神籠石(1932年3月25日指定)、鹿毛馬神籠石(1945年2月22日指定)、高良山神籠石(1953年3月11日指定)、御所ケ谷神籠石(1953年11月14日指定)、杷木神籠石(1972年12月9日指定)、女山神籠石(1953年11月14日指定)、佐賀県には帯隈山神籠石(1951年6月9日指定)、おつぼ山神籠石(1966年6月21日指定)の9か所です。
 
杷木神籠石指定以降の国指定名称は古代山城跡となり、県内では唐原山城跡(2005年3月2日指定)、阿志岐山城跡(2011年9月21日指定)が指定されて」います。

「朝鮮式山城」は、史書に城名が記載され、石累を巡らし、城門、・水門を備え、郭内に倉庫群などの建物の施設を有するものを指します。九州内には福岡県の大野城跡、佐賀県の基肄城跡、熊本県の鞠智城跡があります。「女山神籠石」の名は明治33(1900)年に八木奘三郎が『東京人類学会雑誌』に「九州地方遺跡調査報告」の中で、第二章神籠石の種類「筑前国糸山」・「筑前国嘉穂郡頴田村字鹿毛馬」・「筑後国山門郡清水村女山」・「筑後国御井郡高良山」の4つを報告したことで全国にしられるようになりました(文献2)。

八木奘三郎は、女山神籠石について、「彼の神籠石は右は右観音堂北方に連なる山嶺に起り、南面より西北に走りて渓谷を亘ること五,十数丁を廻り手て頂上に還れるが若し、予は社地の近傍なる築石を度りしに長さ2尺23寸より3尺8寸位のものが有り、厚さは1尺8寸内外にて高さは2尺を起こるもの多からざりき、此場処に出て居るもの総長さ12丈4尺有り、絶頂より東に面する箇所また多く見ゆ、而して頂上に近き邊は山の自然岩を其儘利用せるものを交え又上部の前面を一段り窪めたもの有り」と報告しています。

a0137997_1724059.jpg



女山神籠石の調査は、昭和10(1935)年に石南より産女谷、源吾谷、長谷、粥餅谷(横尾寺谷)の水門が設けられています。
野義助による列石の調査が行われたことにはじまり、この調査を第一次調査とします。調査結果は、産女谷・源吾谷・長谷・粥餅谷の4つの水門と列石766個を確認し、北側(山側)には列石は列石は存在しないとほうこくしています(文献3)。

次に、昭和42(1967)年の第二次調査では、昭和40(1965)年に土取り工事による列石線が約100m崩壊したことを契機に調査が行われました。調査は、神籠石北半部の列石未確認部分の確認調査が実施されましたが、列石はもちろん土塁の版築の痕跡すら確認できなかったと報告されています。また、この調査では、頂上部北側の東斜面列石は踏査で確認できなかったと報告されています。さらに、そのほかに粥餅谷水門南側にある日子神社の参道沿いに列石が一部露出しており、その背後に土塁状の高まりが認められた部分にトレンチ調査を行っています。その結果、列石前面に直径30cmの柱穴と列石背後には、列石の天端から約2mの高さの土塁版築を確認しています。東側列石の頂上部より南西へ約150mの部分の確認調査では、列石前面から20cm前後の距離、深さは列石下端面から70~80cmでやや内側に傾斜する柱穴が確認されています。これらの調査結果により、列石の全面に柱間隔3m(10尺)の柱穴の存在と版築による土塁の存在がわかりました。加えて列石は長方形の切石で、上端にL字形に切り欠き加工をしたものがあると報告しています(文献4)。

昭和46(1971)年の第三次調査は、昭和44(1969)年4月に源吾谷水門から産女谷水門間の土取りにより産女谷水門が工事用道路の下に埋没することを契機とするもので、産女谷水門の位置確認のための緊急調査と列石線の測量調査が実施されました。土取り工事のため地形が大きく変わったため、水門は位置の確認にとどまり、列石は落石し、露出した列石の裏には版築が観察されていますが、その主要部分は完全に取り去られ、水門跡から北へ35mの所まで工事によって列石は完全に失われていました。この地点から、さらに北方の100mの地点までの約65m間は抜き取りの痕跡も含めて35個の列石と版築を列石の裏側に入れたトレンチから確認しています(文献4)。
 
昭和56(1981)年の第四次調査は、山内古墳群の山内二号墳のすぐ東側の列石調査が実施されています(文献5)。この調査は、山内二号墳の墳丘と神籠石列石との関係の把握のため、墳丘断ち割りトレンチを列石の所まで伸ばしましたが、墳丘と列石裏込めおよび版築との前後関係はつかめませんでした。この調査により、列石の背後にある垂直に近い地山の岩盤を削り出して、そこから75mほど離して列石を据え置いた後、版築で裏込めていることが確認できました。版築は赤褐色土と、地山の岩盤を削り出した際に得られた灰褐色土を基調に交互に叩き占め積んでいます。列石前面のトレンチで、柱穴が9個確認され、柱穴間は10尺に近いものでした。列石は長方形の切石で、前面上端にL字形の段を造りだしていると報告しています。このp調査において神籠石の年代は、山内古墳群との関係から7世紀後半に位置づけられています(文献5)。

第五次調査は、平成22,23(2010,2011)年の2か年にかけてみやま市教育委員会が史跡の現状と周辺環境などの正確な把握のため現地調査を実施しました(文献6)。調査内容は同22年に列石を踏査し、馬蹄形に列石が配列していると想定される1.5kmのうち、列石が確認できる場所を平板測量による図化と、産女谷水門の図化を行いました。同23年は、粥餅谷水門・長谷水門の図化を行いました。同24(2012)年に第一次・第二次・第三次・第四次の調査内容を踏まえ、調査成果を史跡内容確認調査報告書として刊行しました(文献6)。ここで掲載する資料は、その報告によるものです。

a0137997_175242.jpg



第五次調査の報告書には、発掘調査以外の市に残る関連資料の調査も行い、昭和29(1954)年11月15日付で東山村教育長(昭和31年に東山村は瀬高町に編入)から福岡県教育委員会教育長宛にて台風12・14・15号による文化財被害復旧費の申請書に添付された資料(図2)が発見されました。この申請書によると、このとき、神籠石の復旧工事で人力により崩土の取り除き作業が行われたことが記載されています。また、この図面は絣餅谷水門と判別できます。

a0137997_1764527.jpg



a0137997_1771841.jpg



第五次調査の結果は、列石の配列は全体的に曲線を基調としています。石材は入念な加工を施し、面を直線的に揃えた切石が使用されています。「はつり」と「敲打」により、切り欠きの加工が見られます(図3)。敲打は、石材の表面をたたいて加工する手法で、精緻な整形がなされています。一部、自然石の利用も見られました(図4)。特に、自然石の切り欠き加工は、列石築造後に行っていた可能性があり、切り欠き加工と土塁の築造を考える上で重要な成果です。列石の上面は、赤色粘土層に置かれていました。版築は2種の土層を交互に積んでいます。

a0137997_17859100.jpg


水門は4つの水門のうち、源吾谷水門は土取り工事により崩壊しています。産女谷水門(図5・口絵)は、神籠石域内にY字形の谷から西に延びる谷に設けられた水門で、近年の源吾谷水門から産女谷水門間の列石
内部からの土取り工事により崩壊したため、積み替えられた状態で現存することがわかりました。

a0137997_17105339.jpg



長谷水門(図6・口絵)は、神籠石域内にある南東から北東方向に伸びる谷に設けられた水門です。この部分は昭和10(1935)年に発掘調査が行われています。現状では、約三分の一が埋没していましたが、清掃により吐く口を確認し、また断面観察から水門上に土手を構築していたことが想定されます。原状と比較して、石材が失われた状況は確認されず、今に至るまで良好に保存されてきたことがわかりました。

長谷水門の石積は切石により横目地を揃えて整然と積まれています。切石は、ほぼ正方形のものも多いですが、横長の長方形を多用しています。大きさは幅40~80cmに収まるものが大部分ですが、吐口部上部には、幅約110cmの大形の切石が使われています。吐口部は、底面となる部分に厚さ10cmの板石を据え、両壁は高さ40cmの切石を用いています。吐口上部は高さ約50cmの切石を用いていますが、これにより横目地が通らなくなり、この上部の切石は角を鍵形に形成された切石を用いています。現状で最大五段の石積が確認でき、高さ約2.5mを測ります。幅は7.5m程度です。

こうした大型切石の使用や鍵形の加工などから、水門の構築は吐口部を中心になされたと想定できます。水門の両面は地山の岩盤となります。北側は凹凸の多いほぼ垂直に切り立つ岩盤で、南側は巨石状をなしています。南側は積石の形状に合わせて岩盤を窪めるように加工しています。この岩盤の加工は、現状の積石より上位でも確認され、あと五段程度積まれていたことが想定されます。吐口は幅60cmを測り、内部はほぼ水平に伸びます。

a0137997_1712578.jpg



粥餅水門(図7・口絵)は、神籠石域内のY字形の谷から西へ延びる谷に設けられた水門です。南側の尾根斜面に列石線が確認されていますが、その直線の延長上に位置しています。

昭和10(1935)年の調査において確認された北側の一石が現在は埋まっていることが確認されました。現状での幅は、約7mで、高さは3mですが、幅から推測すると長谷水門と近い規模であろうと思われます。

積み石は、切石を用いています。その大きさは幅40~150cm、高さ40~80cmと変異の幅が大きい石を使用しています。北側は石材を縦に用いるものや、一石の横を二石使用にするなどの状況も見られ、鍵形に加工する造作も見られます。

吐口は高さ約35cm、幅約75cmを測ります。底面はほぼ水平ですが、排水側からみてわずかに北側に曲がっていると観察されます。側壁は、奥行1.3~2.1mを測る大型の切石を用い、南側側壁は一か所のみ二段で構築します。北側側壁は、手前の二石は切石ですが、それより奥は、比較的凹凸が多い石を使用していると観察されます。

女山神籠石は明治時代より存在が知られていましたが、昭和~平成時代と5回の調査においてもまだ未解明な部分が多い史跡で、今後の調査が期待されます。

a0137997_17131050.jpg



続きます。






みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-07-02 16:51 | みやま市の歴史 |Topに戻る