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千寿の楽しい歴史
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2017中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内1・千寿の楽しい歴史
中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内1 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P465~471より

みやま市教育委員会発行


中世の城館は、中世城館としては南北朝内乱期以降に出現します。それ以前は館(タチ・ヤカタ)として存在します。)竹井城(竹井萱津城・溝口禅院城は中世の城郭です。

竹井城・竹井萱津城  高田町竹井

竹井城あるいは竹井萱津城は同じものと見られ、萱津は竹井と隣接する高田町海津のことでしょうか。竹井城合戦は康永2(1343)年に始終しています(文献1)。合戦に関例した軍忠状は15点ほどあって、それらによるとかなりの激戦であったといいます。竹井城に立て籠った武将は、中院侍従義定・菊池武茂・大城藤次(草野一族)らの南朝勢力です。ちなみに、竹井には「大手畠」「土井ノ内」など中世の城館に関連する小字がありますが、南北朝期の竹井城に由来するものなのか『南筑明覧』(文献4)に記載がある西原石見守武雄の居城跡と伝える戦国期の竹井今城にあたるものなのかは断定できません。

溝口禅院城 瀬高町広瀬

また、南北朝の溝口氏が籠る溝口禅院城は、竹井城合戦の開始直前に、焼き討ちで落城しています。溝口禅院城は、矢部川中流、城の左岸にある廣瀬禅院地区にあると推定できます。

室町から戦国期の筑後は、国人領主が割拠していましたが、城館は、みやま市域では田尻親種以前(鷹尾移住以前)の田尻城のみです。田尻城以外は、すべて国人(田尻氏・上下蒲池氏・溝口氏・三池氏)の支城で、城将や城番が配置されて支城化されています。

矢野一貞が幕末に著した『筑後将士軍談』(文献10)では、瀬高町内では、本郷村城跡を含めて10か所、高田町内では6か所の城館の記載があります。

本郷城跡 瀬高町本郷

本郷城跡は、「蒲池鑑広の臣壇大炊助守る」(文献10)とあり、また天正12(1584)年に山下城主蒲池家恒(鑑運)に本郷城を築かせたとあります(文献10)。壇大炊助は後の立花宗茂の時代(天正15(1587)~慶長5(1600)年)には、本郷城の城番であったと思われます。平成の初めごろまで、本郷集落の西側にある堀を隔ててさらに西側には江戸時代に大庄屋を勤めた壇氏の住宅があり、この辺りが本郷城跡かと想定できます。

吉岡城跡  瀬高町吉岡

吉岡城跡は、「蒲池鑑広の臣吉岡加賀守拠る」(文献10)とあり、現在でも周辺には吉岡川が流れていて、当時の堀割りと関係したものでしょうか。『旧柳川藩志』(文献1)によると、「瀬高町大字吉岡の中央にあり。境界判然たらず。今僅かに東西3間半、南北3間位の不毛の地を存す。天正12(1584)年吉岡加賀守・・・肥前軍を防ぐため之を守る」とあります。古文書や絵図はなく詳細は分かりません。ただ、吉岡集落の中心地域には通称「ヤブノウチ」や西方には「アン」という地域があります。「アン」という地域には長宝寺なるものが所在していたといわれています。

小田城跡 瀬高町小田

小田城跡は「明応・文亀の頃(1500年前後)溝口常陸守・同帯刀拠る」(文献10)とあって、伊藤彝足が編集した『太宰管内志』によれば、南朝方として延元元(1336)年には「溝口太郎入道」、正平14(1359)年には「溝口丹後守」の名前が見えます。また、『旧柳川藩志』「古城跡」の項には「永正の頃(1504~21)溝口薩摩守領地五丁を有し之を守る。小田城跡にあり。一は小田の奥山あり。一は禅院山の城跡あり。それ或は上代の城墟ならんと察す。」とあり(文献1)、小田の山中の北西斜面には現在でも小田城があったと伝えられ、空堀の堀切などが残っているといわれています。

宮園城跡 瀬高町大広園

宮園城跡は、「蒲池鑑広の臣今村氏拠る」とあって、また『旧柳川藩志』「古城跡」の項には、「時に此城を設く。山下城滅して此城を廃す」とあります(文献1)。天正12(1584)年肥前龍造寺軍を防ぐため、蒲池鑑広の家臣今村某に守備させています。『瀬高町誌』によれば、「今は累濠を残し堀で隔てられた多くの島が寄り合って一つの要害を形成している」とし(文献13)、文中年間(1372~75)から応永年間(1394~1428)の初めごろまでに今村大隅なる人物を宮園の地に封じています。今でも、東照寺境内地の一角には「本丸」・「東二ノ丸」・「西二ノ丸」の地名が残っています。

松延城跡 瀬高町松田

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松延城跡は、『筑後将士軍談』によれば(文献10)、「蒲池鑑広の臣樺島式部拠る」とあり、『旧柳川藩志』では「東西50間、南北40間、楕円形をなす。櫓跡今猶認むべし。城濠は埋れて水田となり僅かに小溝を餘巣のみ。本丸・二ノ丸・三ノ丸の称は地名に存す。天正12(1584)年山下城主蒲池氏加勢のため、且つ肥前軍を防ぐため支堡とす。」とあります(文献1)。天正年間(1573~92)に樺島式部益運が拠り、その後、立花氏の城番として立花三郎右衛門が勤めています。関ヶ原の戦いを経て田中氏が筑後国主となると、松延城は支城として松野主馬重元(小早川氏鉄砲組頭であったが関ヶ原の戦いで主家と意見が合わず離脱)が寄合組頭になり、在勤しています。

縄張りについては、平城タイプの範疇です。明治20年代の「筑後国山門郡松田村絵図」・「筑後国山門郡山門村絵図」の旧地形図から推定している、木島孝之の研究「城郭の縄張り構造と大名権力」(文献3)や、字図・地籍図(図3)・米軍撮影空中写真(昭和23(1948)年ごろ)と圃場整備などによる調査結果『山門前田遺跡』所収「松延城跡について」によって復元されています(図3・文献2)。前掲の報告書によれば、発掘調査の成果として「築造時期は、16世紀前半に遡る可能性があるものの、廃城時期については文献の記載通り」としています。松延城の周辺には、「本丸」・「東二ノ丸」・「西二ノ丸」・「北三ノ丸」・「南三ノ丸」・「城内」といった小字名が残っています。主郭(本丸)は水田からの比高.2m、南北87m東西97m(台地上は南北60m東西60m)で南東部が突出した台地にあります(図一)。木島は虎口や累線の形状は不明とし、また前掲報告書(文献2)によれば「南北に虎口を設けるが、南側の虎口は食い違い虎口となるか」とその痕跡が後世の削平や耕作によって変形してわかりづらいようです。主郭分を取り囲む南北260m東西290mの方形の形状の曲輪(くるわ)があります。その南側には「今屋敷」・「掛畑」という小字名があって、「東西340m南北200mで南側の累線には横矢掛けが一ケ所に認められる」といいます。しかし、主郭や二ノ丸(曲輪)に比べると不明確な箇所も多くあるようです。また、発掘調査によって、城跡の北側には旧河川が貫流して堀の役目を果たしています。また、北側の旧河川との間には小さな水路(外堀の一部)があり、松田地区はしゅめどん(主馬殿)川、藤ノ尾地区は城川といったようです。「今屋敷」との境は馬入れ川と呼称したと伝えられています。また、城跡内では、石組と木枠を併用した井戸が発掘調査により確認されています。

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長尾良一氏作成地図を借用しています。

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続きます。







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by kusennjyu | 2017-08-14 17:29 | みやま市の歴史
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