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千寿の楽しい歴史
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2017大牟田の中に荒尾飛び地・千寿の楽しい歴史
大牟田の中に荒尾飛び地

「大牟田どがしこでん」より

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荒尾市民40人が暮らす

大牟田市内に3カ所の荒尾市があるのをご存じでしょうか。周りの家や土地がみんな大牟田なのに、そこだけ荒尾!・・・これを荒尾の『飛び地』といいます。

今回は、小規模ながらおよそ400年も延々と続いてきたこの「飛び地」の話です。

飛び地そのものは全国にいくつもあります。中には村全体が他県の飛び地だったり、飛び地の中に飛び地があったり、小さな飛び地がびっしり集まっていたりと様々、でも「県境をまたいだ飛び地は日本全国に幾つかあるものの、とりわけ市街地にあり気軽に訪れることができる飛び地は、中国地方以西の西日本ではここ(大牟田・荒尾)しか無い」と、飛び地マニアは語っています。

税金は荒尾に、サービスは大牟田から

荒尾市役所によると、大牟田市内にある荒尾市の飛び地は3カ所。面積は合計およそ1万6千平方メートルあまり。40人が住んでいます(2012年の国勢調査)。

さてそんな飛び地に住む人は、れっきとした荒尾市民。しかしちょっと変です。

飛び地に住む人は住民税や固定資産税は荒尾市に払っています。選挙も荒尾市や熊本県。行政から届くのは「広報あらお」や荒尾・熊本の選挙公報。

ところが水道は大牟田市水道局から、し尿、ごみも大牟田市からと多くの行政サービスは大牟田市から受けているのです。小中学校は本来荒尾市内の学校に通うことになっていますが、希望届を出せば大牟田の学校に通うことができます。

緊急通報したら、どっちが出動?

固定電話の市外局番は「0944」で大牟田と同じ。119番通報すれば救急車や消防車は大牟田市消防本部から出動。110番は福岡県警に通じ、熊本県警を経て荒尾署警察官が駆け付けます。郵便物は荒尾郵便局からの配達です。

ま、ややこしい限りです。でも当の飛び地の住民は、大きな不便を感じている気配はありません。

大牟田市藤田町に囲まれた荒尾の飛び地(荒尾市本井手)に住むMJさんは言います。

「荒尾は、選挙と税金だけですたいなぁ。あとは水道も、くみ取りも、ごみ袋も、全部大牟田」。「私しゃ荒尾の原万田生まれですから、そこん親戚とかに電話するときゃ市外局番ば回さんといかんですたい。おんなじ荒尾ばってんね」。

娘さんが小学生の頃に予防注射を受けるとき、荒尾市役所まで承諾書をもらいにいく必要があったなど、多少面倒なことはあったものの、「別に困ることは、なーんなかですよ。だけん、こんままでよか」と言います。

大牟田市船津町内にある飛び地(荒尾市上井手)に自宅が建つ家の主婦。

「玄関先の駐車場から向こうが大牟田市ですから、家の住所も大牟田市にしました。固定資産税?はい、面積に応じて荒尾と大牟田に払っとります。以前はそれぞれ払いに行っていました。今は通帳からの引き落としだから、不便はないですね」

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児童と涙の別れ

明治のこと、駛馬村役場に勤めていた人の話が残っています。村内に荒尾の飛び地があったことから、荒尾の子どもが沢山駛馬南小学校に通っていました。その人は、ある日、村議会に呼ばれてこのことでひどく叱られました。

翌朝からその人は、荒尾から来る児童を捕まえるため、県境での張り込みを始めたのです。税金は荒尾に納め、学校教育は駛馬村でというのは、村の経済が許さなかったのです。

児童は捕まえようとすれば逃げ出し、捕まえたら泣きだすで、その人もほとほと弱ったようです。しかしとうとう50数名の児童が荒尾に転校することになりました。教え子と別れることになった学校の先生は、みな涙を流したそうです。捕まえる役となった役場の人も、その後、児童の通学風景を見るたびにつらくなったといいます。

飛び地をかかえる地域だからこそ、胸が痛む出来事があったのです。

起源は戦国の世か?

ではどうして“ややこしい”飛び地ができたのか。

大牟田市史や郷土史料によると、荒尾の飛び地に関する記述が文献に出てくるのは江戸時代初期の寛文13(1673)年6月付けの三池藩家老と細川藩役人の間で交わされた覚書が最初だそうです。

内容を現代文に直せば、おおよそ次の通りです。

「(三池藩領)藤田村は(細川藩領)井手村深瀬堰からの取水の代償として、前々からの堰料一町、溝料五反の替地を継続するが、堰は井手村に属していること。併せて井手村は藤田村への用水に支障を起こさないことを両村で取り決めをかわす・・・・」。

つまり三池藩内の水田に諏訪川の水を供給するため、細川藩内に堰と水路をもうけ、その代償として三池藩内の土地を細川藩に提供するという交換契約。

今から344年前の覚書ですが、「前々からの」とあるわけですから、起源はさらに遡るのは確かです。「戦国時代から」とか「安土桃山時代から」とする郷土史家もいます。そうなると400年もの歴史を持つことになります。

弘化3(1846)年10月にもほぼ同内容の取り決め文を交わしています。何度も争いが起こったのでしょう。その度にこのような取り決めを幾度も重ね、明治を迎えます。

そもそも明治以前の日本は米本位の経済。各藩のいわば国家予算も、三池藩一万石などと米で換算します。その米作の基本をなす灌漑用水は、藩にとっては最重要事項。農家にとっては文字通り命そのものだったのです。

つまり貴重な水をめぐる幾度もの争いを解決してきた先人の知恵と努力の跡こそが、大牟田にある荒尾の飛び地なのです。

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終止符を打ったのは三池炭鉱

堰と溝はその後どうなったでしょう。問題の根本は諏訪川の水利問題なのですが、ここに三池炭鉱が関係してきます。

三井鉱山は炭鉱や工場の拡張・拡大と増加する社宅用の水の確保が必要となったため、明治40(1907)年、県の許可を得て諏訪川のから取水を始めました。ところが夏の間は藤田地区などの灌漑用水が不足します。そこで三井鉱山と水田耕作者が話し合いを持ち、三井鉱山が万田坑から汲み上げる地下水を水田用に提供すること、耕作者に補償金を支払うことで合意しました。

この合意により、昭和17(1942)年までに諏訪川の堰は取り除かれました。堰の水が通っていた溝の役割も終わったのです。代わりに万田坑から水田に送水するための溝が新たに作られました。

争いをやめ、譲り合い、支えあった証

水をめぐる長い長い歴史を物語るものとして、飛び地、そして堰からの溝、万田坑からの溝は、目立たないながらもひっそりと残っています。それは大牟田と荒尾の人々が、命の水をめぐり争うことを止めて協力しあい、譲りあい、支えあった証だと思います。

飛び地の問題について大牟田市と荒尾市は、特に現状を変える必要はないと考えています。住民からも飛び地の解消を求める要望はないようです。


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2010大牟田市に荒尾市の飛び地があること知っている?・千寿の楽しい歴史

有難うございました。




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by kusennjyu | 2017-08-16 18:22 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策
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