2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介3・千寿の楽しい歴史

『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介3
本村精二著
2・ 黒門前の決闘についての考察
①黒門について
柳川城はもとは蒲池城の出城であったが永禄3年頃、蒲池鑑盛(あきもり)が本格的に拡張して本城に造り直して、現在の堀割に近いものにしたと云われる。 寛政3年の柳川城下図に見る城郭は、関ヶ原の戦い(慶長5年)後、入封した田中吉政が慶長年間に筑後32万石の身代をかけて大々的に増改築したものである。
天正15(1587)年に筑前から立花宗茂が入城した当時の柳川城は規模も小さく、堀と土塁を主にした城で、寛政の絵図に見る城郭とは多少異なっていたと推測される。しかしながら天正8年の龍造寺勢、天正12年の大友勢の2度に渡る猛攻にも陥落しなかった堅城だったことに違いはない。
元来、宗茂は野戦を好み、籠城に重きを置く城郭建築にはあまり関心を持たなかったと伝えられるが、豊臣大名としての立花宗茂も、入封後、城の増築と改修を急いだようである。二の丸の前の内堀に架けられていた通称欄干橋の擬宝珠に慶長4年の銘が刻してあり、関ヶ原以前にすでに三の丸があり、その東南隅に黒門があったことは事実であろう。
秀吉による天下統一が成ったとはいえ、臨戦態勢の解けない時代だったから、城の内郭を守る重要な役目を持つ黒門は特に厳重な造りであったと思われ、時代的にも狭間と櫓を備えた枡形(ますがた)門であったと考えられる。
②決闘の場所について
立花家旧記に「黒門前ニテ御成敗」とある。黒門前とはどこを意味するのか、その場所について考察した。可能性として3ケ所が考えられる。
一つは中堀の外、黒門橋の手前で現在「黒門前戦場」の石碑が建っている付近である。しかしこの石碑は大正時代に建てられたものであり、横にある六面地蔵(六地蔵尊)と隈部親永の供養塔と伝えられる石塔はずっと昔からあったとの事(庭の持ち主で年配の住人の話)で、また六地蔵は死者を冥土へ導く入り口に置かれるとされるから、むしろこの場所は隈部一党を供養した場所ではないだろうか。またここが決闘の場なら、資料にも黒門外の戦いと記されるのが妥当ではなかろうか。
次に考えられる場所は、黒門橋を渡った門前の溜まり場で、堀に囲まれた枡形の空間である。文字どおりに解釈するなら、ここは正しく黒門前になる。しかしこの場所は最大に見積もっても、一辺が5間(9メートル)以上の幅はなく、双方合せて30人近くの人数で戦うのには狭すぎる。決闘が行われた場所とは考え難い。
最後の考えられる場所は黒門の中、三の丸東南隅の広場である。ここなら少なく見積もっても22間(40メートル)四方の面積があり、20数人が同時に戦うのに十分な広さがある。宗茂を随行させた検視役の浅野長政も、二の丸東南隅の櫓から掘越に決闘の一部始終を検分することが可能である。門を閉ざすことにより隈辺側の逃亡を防ぐことも出耒たであろう。やはり三の丸広場を決闘の場所とするのが妥当と考えられる。
黒門橋を渡った隈辺一党12名は枡形の溜まり場に立ち、右側(北側)の黒門が内開きに開くのを待って三の丸へ入ったのであろうか。決闘の行われた場所は現在の城南町交差点付近を中心に柳川消防署辺りまでの範囲と推測される。

続きます。
みやまいいまち会 http://blog.goo.ne.jp/8350018
クリックして見て下さい。
梅野家歴史資料館 みやま市瀬高町大草女山932
みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園 4月 5月 新緑 6月 11月 梅野家の紅葉 季節を楽しんで下さい。
梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史 白蓮さんの写真が載っています。
青輝園 御座敷梅ユリ展
私の目標 皆さんに感謝します。