人気ブログランキング | 話題のタグを見る
千寿の楽しい歴史
kusennjyu.exblog.jp
ブログトップ
清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)
清水歴史散策

竹後句碑

清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)_a0137997_9512158.jpg白秋と伝習館同僚の俳人 松尾竹後(女山出身)明治18年-昭和35年 
松尾竹後は瀬高町女山出身で白影、由布熊次郎もその一人である。明治34年頃の中学伝習館に四人の文学少年北原白秋と由布、白影らは文学に目を開いた同僚である。のちに白影は俳句一筋に進み明治40年に上京、日露戦争時、松尾竹後の号となす。関東震災大正12年、瀬高に一時帰郷「瀬高倦鳥俳句会」を指導した。昭和35年に79才で佐賀にて永眠。死後「海鼠の如く」と題した竹後の句集が町内で発行され、句碑も5基建立された。
            
                   【松尾竹後の俳句】 
 明治40年上京した竹後は、若干28才にして「宝船」の選者に推され、  
 明治、大正年間に次のような今に瑞々しい作品を発表している。


びろうどに真珠に冷ゆる雪は降る      沼沿ひの草恋ひ馳(は)せし雪舟(そり)のあり
よき水に茹(ゆで)竹の子の象牙かな     麦の穂のもやもやもせむ乳のあたり
躍(おど)らしき乳房つつみて単もの    きりぎりす女は肌を見せずなりぬ 

 
 昭和初年刊、歳時記に次の句などが収録されている。

 おととひの海鼠と黙し今日もあり     春の夜を二人しあらば疑はず
 あきらめておるに月出る旧山河      おぼろおぼろあきらめきれず海の音
  

 その後、昭和21年瀬高に移り住み水害や火災にあったのを次の句で詠んでいる。

 ものの本水に火に減り桃青忌       初冬の日向自由に堂往ひ

  晩年清水本防庭園を俳句の道場と絶賛し、芭蕉や恩師の松瀬青々の句精神を受け継ぎ清水寺に芭蕉忌を修しつづけた。
  
  青々忌西陬(すい)にして竹後あり    酬恩の思ひ芭蕉にさかのぼる 

 出世間的、句生活の竹後は「さび」の境地を深め「霊玄」に入り、また「象徴」の世界は遊ぶ秀作を残している。

  秋風は姿を雲に吹きにけり       しずかにも月の僧坊さまたぐる
  眠る山を出てはかへらぬ水の音     雨月一夜をいかに寝し音ぞ山小鳥
  天翔(かけ)る歓喜天花に観世音     身じろげば梅が香揺るる思ひあり  


門下生の句に    さささっと笹をはなるる雪の音(黒田筍頭)、
          ジャーピーが墜ちし背振りの山霞む(古賀梅桶)、
          凍てし野をわがものとして飛べる鳥(庄村輓水(ばんすい))がある。
 


称名庵

清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)_a0137997_1035727.jpg清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)_a0137997_1041156.jpg










称名庵(しょうみょうあん)  通称(千体佛堂)
 柳河藩主(田中吉政時代)の家来、林五郎左衛門の娘操(みさお)は、城下の京都三左衛門の次男幾之助を婿養子に迎えることになり、操に横恋慕していた宮川右内(うない)は、失恋のあまり京都父子が福島城(現八女市)建築視察の帰りを待ち伏せして鉄砲で撃ち殺し、柳河から逃げ去った。
 操は「清水観音様」にすがり、宮川右内を討つことを誓い諸国を訪ね歩くこと10年、元和7(1621)年、四国徳島の城下町で助太刀を得てあだ討ちを果たした。
 清水山の中腹に庵(いおり)を作り、そこに住み、その庵を称名庵となずけ尼僧となって千体の佛を刻み故人の冥福を祈った。その仏像が今でも昔をしのんでいる。
 上庄の西念寺に墓がある。



五百羅漢

清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)_a0137997_10152465.jpg清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)_a0137997_10232038.jpg










五百羅漢(ごひゃくらかん)
 ここの五百羅漢は、釈迦の弟子500人の修行僧たちの像で、文化・文政の頃から大正年間にかけて奉納されたようです。いつの頃からか、心ない者によって首がことごとく落とされ「首なし地蔵」と呼ばれていたが、最近になって誰かの手で再び首がつけられ、新しい五百羅漢の復活になっている。

仁王門

清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)_a0137997_10352035.jpg
清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)_a0137997_10355538.jpg
















仁王門(におうもん)  延享3(1746)年
寺院浄域(きよいさかい)の入口に仏法を守護する「金剛力士」の像を安置した門で、藩主藩民の寄進によって建立された。
 棟木には天正15(1587)年の銘が刻まれているとの事です。

 現在、仁王門の仁王は盗難防止のため金網が張られ写真を撮られない状態である。
 仁王の写真は西日本新聞連載の昭和32年より。



清水寺楼門

清水歴史散策 2(みやま市瀬高町の名所)_a0137997_10572269.jpg清水寺楼門 県指定建造物
 木造入り母屋二層造りで、階上階下とも36.3平方メートルで高さ10.8メートルである。
 階上には、釈迦如来・文殊如来とこれを守護する持国(じこく・東方を守り国を守る。)廣目(こうもく・西の守り)増長(ぞうちょう・南方天の名)多聞(たもん・福徳を守り北方の天を支配)の四天王の像が安置されている。
 延享2(1745)年、今から約260年前、柳河藩6代藩主立花貞則公が願主となり、大城源右衛門を大棟梁として建立された。



清水の文学碑を紹介します。            現在地     建立年月

松尾芭蕉 観音の夢見やりつ花の雲         観音参道    文政年間 

北原白秋 山門はもうまし邪馬台 の詩(後は略)  清水寺     昭和60年1月

與田準一 山上永遠のなかにあって
       白雲霊夢をおもう
     花影月露のなかにきこえる
       乳父慈悲のこえ           清水三重の塔前 昭和57年11月


高浜年尾 観音に詣るこゝろに梅雨晴れて      観音参道    昭和55年8月

北原白秋 ちちこいしはゝこいしてふ子の
       きじは赤とあおもて染められにけり  清水寺本坊   昭和33年3月


松瀬青々 般若読む日暮に花を踏み帰る       清水寺本坊   昭和40年4月          

松尾竹後 秋風に姿を雲に吹きにけり        清水寺本坊   昭和33年9月

松尾竹後 しづかにも月の僧坊さまたぐる      清水寺本坊   昭和46年7月




次回は清水寺・撫で仏・三重の塔・乳母観音などを投稿します

仁王門と楼門の間に、階段になってすぐ右側に「忠誠の碑」と「芭蕉の碑」があります。
内容が判らず省きました。階段の両側には基金者の石碑が並んでいます。
私の祖父の名前も見つけました。



10月15日に文学碑紹介を追加しました。
by kusennjyu | 2009-10-14 11:09 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策
|Topに戻る