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千寿の楽しい歴史
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2009田尻氏の足跡を訪ねて(みやま市高田町)千寿の楽しい歴史
歴史講座現地見学会 1

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とき 平成21年10月24日(土)13時30分~17時。

内容 みやま市文化祭協賛事業

主催 みやま市教育委員会

JA南筑後 高田東部支所駐車場に集合。
みやま市職員が講師の大城美知信先生を紹介する。

参加者 約40名

森山八幡宮

左:森山八幡宮前で説明する先生                    

右:聴講する人たち

2009田尻氏の足跡を訪ねて(みやま市高田町)千寿の楽しい歴史_a0137997_8572694.jpg2009田尻氏の足跡を訪ねて(みやま市高田町)千寿の楽しい歴史_a0137997_8573955.jpg


田尻の森山八幡宮の裏山一帯は、戦国期田尻氏の居城、飛塚城の跡といわれる。
 
天文17(1548)年頃、田尻親種(ちかたね)が大友義鑑(よしあき)から山門郡の鷹尾に250町の知行地を与えられると、矢部川河畔に新しく鷹尾城を気築き、これに移った。(田尻文書)旧田尻城には、一族の田尻左京を入れて城番としたという。(旧柳川藩志)

森山八幡宮は城地の一角にあり、その由緒については、田尻氏の遠祖大蔵春実が天慶5(942)年、平将門討伐の帰路、江州守山宿の霊夢に感じて勧請したものというが(旧柳川藩志・高田町誌)、真偽の程は定かでない。しかし、田尻鑑種(あきたね)が竜造寺に差し出した起請文(竜造寺文書)には「氏神森山大明神」と称しているので、同氏が氏神として崇敬した神社であることは確かである。

境内地の小字を「陣内」といい、もともと田尻場内に守護神として奉祀(ほうし)した神社であったと思われる。

竹飯八幡宮の鳥居

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筑後地方には、大善寺玉垂宮、水田天満宮、蒲池三島宮等に肥前型鳥居があり、それぞれ文化財に指定されている。竹飯八幡宮の鳥居もこの肥前型鳥居の形態の古い形を示している。
 
普通の鳥居は笠木(かさぎ)が全体的に曲線を示すが、肥前型では両端だけが曲線となっており、島木と貫(ぬき)のあいだが狭く、笠石はずん胴型で二段あるいは三段の継ぎ目をもっており、基礎部分は台座をもたず掘っ建て式になっている。

肥前には砥川(とがわ)の石工が有名であるが、この鳥居には残念ながら石工名もなく、造立年月日の銘文はいっさいない。いつ、誰が作ったかは明らかでないが、竹井城の祈願神社としての性格を持っている八幡宮であるからには、田尻氏の寄進とも考えることができる。いずれにしても、当地方における唯一の肥前型鳥居で材質は杵島地方の安山岩である。

竹井城址(説明のみ)

南北朝期の康永2(1343)年、南朝の中院侍従義定、菊池武茂、大城藤次(草野一族)らが筑後の竹井城にたてこもったので、鎮西菅領の一色範氏(いっしきのりうじ)が大友・小弐らの軍勢を差し向けてこれを攻略し、落城させたことが「竜造寺文書」や「筑後近藤文書」などによって知られる。

この竹井城を山本郡(現久留米市山本町)に在りとした文献もあるが誤りである。「近藤文書」には「竹井萱津城」とあり、おそらく海津のことを当時萱津(かやつ)と称していたのかも知れない。

また「南筑明覧」に西原石見武雄の居城跡と伝える竹井の今城のことが記載されている。西原氏は田尻氏の有力家臣で、今城はその居館址と思われる。

因に竹井には「大手畠」(おおてばた)・「土居の内」(どいのうち)など中世城館に関連すると思われる小字が認められるが、これらが南北朝期の竹井城に由来するものか、戦国期の竹井今城に因むものかは即断できない。いずれにしても、竹井が軍事上の要衝で
あったことを物語っている。

                                        つづく。

by kusennjyu | 2009-10-25 10:35 | 田尻氏の郷の散策
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