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千寿の楽しい歴史
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2009田尻氏の足跡を訪ねて2(みやま市)千寿の楽しい歴史
みやま市歴史講座現地見学会 2

宮園城址

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説明する東照寺住職
 
 
宮園城は、応永(1,394~1428)年間に、今村家の居城として築城。

 
初代今村大隈以来4代土佐入道覚盤まで、代々この城を守った。
 
宮園城は、水城(浮城)と呼ばれ、四方を水壕に囲まれ、清水山の大堤を切ると敵兵を溺れさせ、城を孤立させることが出来る構造になっている。

東照寺は、今村家の菩提寺として開創。本尊は薬師如来。当時の本尊は現存せず、江戸期に像立された「薬師如来像」・「十二神将像」・「観世音菩薩像」が伝わる。

宮園城は難攻不落とうたわれ、決して責め落とされることはなかったが、豊臣秀吉の九州征伐の折、ついに落城。東照寺もそれに伴い荒廃していき、先代住職観海僧正が昭和代に再建。

現在の石垣は、当時のものではなく、昭和に入って再建したしたもの。当時の石垣は柳川城築城の折、全てを供出する。しかし、堀割りの形は当時のままである。

当時の宮園城には天守閣は存在せず、館と敵兵攻撃、見張り台を兼ねた高櫓を建てていた。

九州征伐の後、今村家4代の御霊は「伝之授社」祭神としてまつられる。現在は東照寺がこの神社を管理。

また、九州征伐にて戦死した、兵士に関しては「将軍地蔵」としてまつられている。



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「伝之授社」には、歴代城主たちの逆修碑が残され、生前につんだ仏徳をしるした石板が祀られている。

「伝之授社」にまつわる伝説

伝之授社」は、昔から容易に近づくと様々な祟りがあるという荒神だった。唯一、今村家の武器管理をしていた松藤家一族だけが近づくことが出来た。松藤家の者が世話しても何の祟りも起きず、かえってその一族が栄えた。

その伝説を知り、先代住職観海僧正が戦後すぐ、多くの壇信徒と共に、経文八万座の供養を施したところ、祟りは沈まり村とこの寺を守る神となった。

しかし、現在でも、この神社のしめ縄等を世話するのは、この松藤家一族と決められていて、末裔たちが大事に世話している。

阿弥陀如来来迎自然石板碑

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市指定 有形民俗文化財 平成14年2月19日市指定

みやま市高田町海津字古川前244

この石碑は、安山岩自然石の表面を研磨して建立された高さ108.5cm、幅75cm、暑さ5.3cmのもので、正面上部に阿弥陀如来の来迎図を描き、その下に道珎(どうちん)禅門(父)と妙慶禅尼(母)と思われる人物を蒸研彫で表現した板碑です。

碑文によると道珎禅門と妙慶禅尼が阿弥陀如来名号を一百万遍読誦供養し、それが成就したことを記念して、孝子が両親のため、大永6(1526)年8月に建立したものです。

道珎禅門と妙慶禅尼については、戒名前の名が不明のため特定した人物がわかりませんが、禅宗に帰依した在所出家した両親が深く阿弥陀如来を信仰し、阿弥陀如来名号を一百万遍読誦供養し、孝子が碑に遺したという事蹟から考えるとこの地方の豪族と考えられる。

普通、阿弥陀三尊板碑は阿弥陀如来を中心に観世音菩薩と勢至菩薩の三尊が来迎された図柄ですが、ここでは阿弥陀如来一尊でその下に両人の姿が描かれており、当時の在所出家した人々の風俗を知る重要な文化財で文化的価値の高いものです。
 
田尻氏供養板碑

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有形文化財(考古資料)  高田町海津1631、1632

海津阿蘇神社の隣接地に小さな阿弥陀堂があり、その脇に3基の自然石板碑がある。

中央の1基は、戦国時代中程の大永8(1528)年に建てられたもの。左右の2基は、永禄12(1569)年7月13日に、田尻親種(ちかたね)の息女及び嫡男鑑種(あきたね)・次男鎮種(しずたね)らが、それぞれ妙忍大姉の25回忌に当たって、大乗妙典一千部看読の大法要を営んだ記念として造立したものである。

施主が田尻親種の子供達であることから、被供養者の妙忍大姉は彼らの母、すなわち田尻伯耆守親種の妻と思われるが、左側の碑に「先妃妙忍大姉」ともあるので、あるいは親種の先妻であろうか。

天文7(1538)年生れの鑑種はこの年33歳。8歳で実母と死別したことになる。また、鎮種はその弟で、「田尻系図」(親種寺所蔵)には「薩摩ニ住ム」とある。いずれにしても、この板碑は、郷土の中世領主田尻氏が遺した数少ない金石資料として極めて貴重なものである。

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田尻のJA南筑後 高田東部支所に戻り、最後の挨拶で先生の著書を紹介される。


本の紹介  「蒲池氏と田尻氏」

著者  大城美知信・田淵義樹 著
柳川の歴史 2 (柳川市史編集委員会)1500円
      
第1部 蒲池氏の歴史 田淵義樹著
第2部 田尻氏の歴史 大城美知信著
      
10月31日の紹介 講演 「藩境は閉鎖的か開放的か?」 大牟田市・荒尾市境を例に。大牟田中央地区公民館 講師 磯永 和貴氏

17時に解散する。(7Km歩く) 
    











高田町内の人の参加が多い様でした。初めての顔ぶれもありました。
今回は田尻氏の足跡を訪ねてがテーマで興味があったのでしょうか。
現地を見ながら歩き、健康にもよく、多くの参加を待っています。
by kusennjyu | 2009-10-25 13:45 | 田尻氏の郷の散策
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