薩摩街道を歩こう(松崎~府中)
②下岩田一里塚跡(下岩田)


私邸の庭先に立っている「史跡一里塚」と説明文。一里塚は、約4Km毎に設置され、旅人たちの目印になっていた。久留米藩の場合、久留米城下札の辻を基点にせっちされた。
下岩田一里塚は、札の辻から3里(約12Km)の地点に設けられたものである。
③追分石(下岩田)


松崎宿の南構口から1.2KMの地点に追分石がある。民家の前庭の角隅にある。
1.5mほどの追分石の北面には「北至、二日市・博多 東至、松崎・甘木・山家」とあり、南面には「南至、北野・久留米・御井町 西至、小郡・田代」とあり「明治四十四年 下岩田村在郷軍人」と刻まれている。
④高松凌雲の生家と顕彰碑(古飯)


高松凌雲は天保7(1836)年、小郡市古飯(ふるえ)庄屋高松家の三男として生まれ、久留米藩家老の養子となったが、24歳で脱藩して医学の道へ進んだ。
江戸で医学を学び、大坂の緒方洪庵の敵塾に入門、そして一橋家に任官して将軍徳川慶喜の奥詰医師を勤めた。戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)では榎本武揚(えのもとたけあき)らと行動を共にし、函館では敵味方なく負傷兵の治療に当たった。
後に一介の町医者として開業し、同愛社を設立して貧しい人の治療に勤めた。日本における赤十字精神の祖といわれた。
⑤凌雲の兄古屋佐久左衛門の顕彰碑(古飯)

古屋佐久左衛門は天保4(1833)年、高松家の二男として生まれ、最初は医学を志し、「英国歩兵操典」を初めて翻訳するなど語学の才にたけた幕将であった。
函館の五稜郭では、榎本武揚を助けて歩兵隊総指揮官を務めたが、官軍の砲弾を受け戦死した。
⑥古飯(ふるえ)公民館にて昼食
写真は古飯公民館横の神社

古飯の集落。古飯沼の地名は、南北朝動乱時代を描いた「太平記」にも登場する。
江戸時代の参府路(参勤交代の道)となると商店街が形成された。紺屋(こうや)、鍛冶屋、蝋屋などの屋号が今も残っているが、賑わった昔の町の面影はない。
昼食にみやま市山川町の山下さんから全員にコンテナでたくさんのミカンをいただく。
山川町では今超香(こんちょか)みかんを売り出している。皮をむいて一口ミカンです。
柳川方言でこんちょかとは小さいことです。
下岩田から古飯の間の旧道は、圃場(ほじょう)整備姿を
消しているので、やや東側の車道をたどる。
千寿