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千寿の楽しい歴史
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2010薩摩街道を歩こう1(みやま市山川~南関)千寿の楽しい歴史
薩摩街道を歩こう(福岡県山川宿~熊本県南関宿)

平成20年11月2日に「薩摩街道歩く会」主催

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みやま市山川町は、国道443号線(薩摩街道)が南北に縦断し、数多くの遺跡が残っています。自然が豊かで多くの農産物の生産地です。特にミカン、たけのこは特産品として有名です。

山川宿(原町宿)

江戸時代、物資の輸送、通信、休泊の機能を果たすため交通の要綱に馬や人足、宿泊施設などを備えた街道添いの集落を宿場(宿駅)といいます。

ここ原町には、馬継所として馬16疋が置かれ、また各村々伝達のための御茶屋が置かれ、街道を往来する大名の休息所にも利用されたと言われています。


西楽寺 

寛永16(1637)年に僧菊池教心により開祖創建されました。

 薩摩街道・山川宿(原町宿)を偲ばせる唯一の寺で、江戸時代後期の文化9(1812)年2月に街道の測量の
ために伊能忠敬一行が宿泊した寺と伝えられています。


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要川古戦場

要川は源平最後の激戦地として知られています。文治元(1185)年、壇ノ浦の戦いに敗れ、生き残って九州に落のびて来た平家一門は、源氏の追討にあい南へ、南へと遁れました。そして、ここ山川の地を最後の決戦場と決め、要川周辺に陣を敷き、源氏の追撃を待ったのです。

しかし、押し寄せる源氏の大軍に勝つ術もなく、決定的な敗北を期しました。生き残ったわずか、ある者は山や谷に逃げ、ある者は南に向かって逃げ、散々に落ちて行きました。

 飯江川6(要川公公園)平成21年11月を見て下さい。

物見塚

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物見塚上から要川公園方向(北側)の風景です。
 源氏と平氏の最後の決戦の時、要川を眼下に遠く野町から竹井原を望める小高い丘に監視所を設け、源氏の進撃状況を要川の平家軍に通報したと云われ「物を見る塚」と呼ばれるようになりました。

この塚の上にある天満宮は、山川町内では一番古く、長久3(1042)年の創建と云われています。

かさ地蔵

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江戸時代後期の建立。板碑状の石に線刻のお地蔵さん。

この近くでは珍しいものです。田尻種貞と並んで立てられていることは田尻氏の供養のために立てられたものと考えられます。
 
田尻因幡守種貞供養塔

供養塔には、田尻因幡守種貞/圓寂鎮了安大居士/文禄二癸巳年春二月二一日/明暦二年忌日造立焉末孫田尻種元/と四行に刻まれています。

癸巳年は「みずのとみ」年です。焉は「エン・いずくんぞ」と読み「ここに」という意味です。

田尻氏は飛塚(みやま市高田町田尻)に本城を構え、代々ここを居城とするこの地方の豪族でしたが、永禄年間(1558~1569)に城主田尻親種が鷹尾城に移り、ここは城番に守られました。これより数百年この城は続いたと言われています。

種貞の事蹟については明らかではありませんが、おそらく文禄2(1593)年・文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)で戦死したものと考えられます。

ここに供養塔があるのは、種貞が親種以下の鷹尾城に移った後も飛塚城を居城として活躍。
飛塚城の見えるこの地に居城を構えていた為ではないかと考えられます。

下をクイックすると田尻氏関係にリンクします。
「田尻城跡 豪族 田尻氏の郷」  
田尻氏ゆかりの地見学会1
田尻氏ゆかりの地見学会2 
「ふるさと探訪 鷹尾城」

 
 
by kusennjyu | 2010-02-19 12:49 | 薩摩街道
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